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某公立学校ことばの教室教員。公認心理師、言語聴覚士、特別支援教育士。 『クイズで学ぶことばの教室基本の「キ」』の著者。  SINCE 2000.1.1 
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自閉症治療・療育の最前線

「自閉症治療・療育の最前線」
そだちの科学 2013,10、日本評論社

DSM-4で、自閉性障害、小児崩壊性障害、アスペルガー症候群あるいは、PDD-NOSのいずれかと診断される例を 新しい基準では、ASD(自閉症スペクトラム障害)とすればよい。
なぜなら、ASDは、それらを包括する障害だから。

ということは、PDDの判断をするためのこれまでの検査は使えるということですね。
なるほど、当たり前ですね。
ただ、その検査に当てはまらないから、ASDとは言えない、というのも事実で。

また、今後の臨床、研究では、ASD診断に従来の4つの診断を併記することが勧められる。
なるほど。


学校の先生は診断にとらわれてはなりませんが、一方では、こうした知識も正確に理解しておくことも大事ですね。

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子どもの発達は、全ての国民が学ぶべきだ

少子化、少子化と言われるけれど、各種施策の中で、子どもの優先順位はいかほどか、と思います。

高校生ぐらいでも、子育てについて学ぶカリキュラムを設けるべきでは。

3,4歳であれば、まだ、自分が先にやりたい、他人を差しおいて、自分がやりたい、は当たり前。

「じゅんばんこ」、「ならぶ」などは、経験の中で学ぶ過程。
その成功経験の積み重ねによって、他者との折り合いを学んでいく。

子どもが吹っ飛んでしまうぐらいにぶん殴って、「他人に迷惑かけるな」は、子どもの発達レベル、理解力の面からも、心理的な影響からも、望ましくない対応。

これが望ましくないと思えること、より望ましい対応を学ぶためのカリキュラムを全ての国民が学ぶべきではないかなと。

それが、特別支援教育の理解にもつながっていくのでは。

国民全体が、小さい子と接する機会自体が、少なくなっている。
祖父、祖母から、子どもへの接し方を学ぶ機会も減っている。

だから親になってから、とまどいますね。



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さて私こと、




辞令

「地方教育行政の組織及び運営に関する法律第40条の規定により、現職を免じ、北海道○○公立学校教員に任命する。北海道○○小学校教諭に補する」
平成26年4月1日 北海道教育委員会


****

 拝啓 時下、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
                            さて私こと、
この度、○○小学校勤務を命ぜられ、過日着任しました。
 △△小学校ことばの教室では、十年間、楽しく、貴重な想い出をたくさんつくることができました。私の生まれ故郷で、特別支援教育に関わらせて頂いたことは感慨無量です。心よりお礼申し上げます。
 新任地でもことばの教室担当となりました。これまで皆様ともに歩ませて頂いた貴重な経験を生かし、子ども達のために尽くしたいと思います。
 どうか皆様の前途も、幸せに満ちた日々でありますように。支援を必要とする全ての子ども達、かかわる皆様方が、幸せな人生でありますように。
 子ども達が大きく育った姿をいつか拝見したいと思います。遠くから応援しています。ありがとうございました。                              敬具
 
                           平成二十六年四月                                         
                                    ya
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コミュニケーションのつまづきと言っても色々ある

・言語発達の遅れに伴うコミュニケーションのつまづき
・注意欠如多動に伴うコミュニケーションのつまづき
・自閉的傾向から来るコミュニケーションのつまづき
・情緒的な課題から来るコミュニケーションのつまづき


ちなみに法令上は、

場面緘黙→言語障害ではなく、情緒障害
読み書き困難→言語障害ではなく、学習障害


場面緘黙は、聞く、話すことの基礎的事項に遅れがなくても、不安や緊張の強さから「話せない」のであって、言語能力とは区別されます。もちろん、状態が重複する場合もあるでしょうけれども。
場面緘黙を言語障害に分類している時点で、障害の意味を理解しているのかな、ということになります。

聞く、話すの基礎的事項に遅れがあるために、読み書きにも困難が生じることはありえますが、読み書き障害=言語障害ではありません。





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ことばの教室で何しているの? どういう人が行くの?

どうして○○くんだけ行くの?
どんなところなの?

新一年生に矢継ぎ早に質問されました。
背の高い人、低い人がいるのと同じように、勉強の仕方もいろいろあるでしょう?
という説明で、わかった子もいましたが、わからない子もいました。

「習い事に行っているんだよ」

この一言で、ストンと落ちたようです。

「だって、プールもピアノも習っている人もれいば、習っていない人もいるしょ。ことばの教室も習い事だよ。だから終わったら学級に戻るんだ」

この説明で、完全に理解したようです。
経験に基づく説明は入りやすいですね。特に低学年は。

子どもが小さいときから、特別支援教育の理念を他児に伝えていくことの大切さを思います。

その前に、まず大人が。
近眼の子にめがねを与えるのと同じこと。

「偏見を持つ人は、それだけの人だ」
ある親御さんのことばです。

通う前は親子ともども不安ですが、実際に通ってみたら、何の問題もなかったということがほとんどです。

この子ども達が将来世の中に出たときに、一人一人の違いを理解できる大人になってほしいです。


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ことばの教室 基礎的インフラの整備



オージオメーターがないようで、やっと教材室から探し出したのが上の写真。
しかし故障。

前任者から教えてもらって、もう一台発見。



しかし、私の耳では絶対聞き取れないはずの0dBが聴取されてしまう・・・。
念のため、保健室からオージオメーターをお借りして聞き比べたら、明らかにこちらの方が「良い結果」に。
キャリブレーションうんぬんの次元ではなく、使用不能。
というか、「聴力レベル」ではなく、「聴力損失」と書いてある時点で、値は変わって当然です。

教育相談の定型様式を見ると、耳の横で指をこすり合わせてみる、と書いてある。
確かにそれも一法だけど、聴力障害を疑う場合は、ちゃんと測らないとだめです。

通級対象に難聴が明記され、パンフレットにも書かれている以上は、聴力を測れる物の整備は必須ですね。




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新任地にて 古い文献、科学的にトンデモな文献は廃棄



段ボール箱との格闘が一段落し、勢いで、着任式、始業式、入学式が終わりました。
持ってきた自作教材を豊富な格納棚のある指導室にしまおうと思ったら・・・。
古い文献が詰まっていて、入る余地がありません。
ちょうど、古い本は捨てていいですよと言われたので、その通りにしたら、その冊数はものすごい数に。

どんな本を保管し、どんな本を捨てたらよいか判断が難しいとのことで、私に判断をゆだねられました。
ある程度の学術的知識がないと難しいですね。

とりあえず、

・10年以上前の学術的文献
・「聴力損失」
・「情緒障害と自閉症」の混同
・LDの定義が昔のままのもの
・自閉症スペクトラムの定義がない時代で、言語障害の守備範囲が広すぎるもの
・科学的にトンデモな本

などを基準にリストアップ。

この教室は予算は潤沢にある分、本もたくさん買えますし、教材の引き出しも豊か。

しかし、それが学術的にどんな背景に基づいているのか、科学的にどれだけ支持されているのかという観点は、これからというところ、かもしれません。

論理療法と吃音、動作法、SSTに力を入れた文献導入のようですが、ちょっと偏りを感じます。


とりあえず、持参した教材は格納できましたが、まだあふれたままです。
この地域、子どもの実情に合わせて、私の教材も捨てなければならないでしょう。

とりあえず、入学式の日まで、なんとか走ってきました。
無理ないようにと言われても、それは無理です・・・。






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「また、戻ってきてほしい」

涙。涙。
そうですね。
一番悩み、一番手を取り合ってきた仲間ですもの。

共に想い出を作ってきました。
つらかった分だけ、その想い出は感謝の気持ちで満たされています。

これまで本当にありがとうございました。

別れの季節に、人の真摯な気持ち、感謝、出会いの尊さを感じています。





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先生も覚えているよ

「先生、私は先生のことを忘れません」
「ありがとう。先生も覚えているよ」

昨日の夜何を食べたか忘れる私が、この子のことを覚えていられるか。

覚えていられるでしょう。
なぜなら、前任校の子どもたちのことを覚えているから。
通級で一対一で接する子どもたちは、ご家族とともに記憶に残ります。


前回の記事で、私はこう書きました。

***

就学相談のレベルアップのために語り合ったではありませんか。
ソウが調査委員から撤退したいま、自前で検査と教育的判断ができるように、そして巡回相談機能と就学支援機能とを統合しようと、構想したではありませんか。
それなのに・・・。

***

これは、教育行政への怒りのように読まれた方も少なくないように思いました。

実は、この想いは、教育委員会と同じ想いなのです。
だから、教育委員会への怒りではなくて、人事制度というものへの怒りです。

「語り合ったではありませんか」
は、もっと一緒にやりたかった、という教育行政と私自身、そして全員ではないかもしれないけれど、保護者・本人、同僚の共通の想いなのです。

怒っているようで、実は無常の悲しさ、そして、感謝の気持ちです。

子どもたちや親御さんからの心のこもった手紙。
一生の宝物です。

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支援目標「卒業式に出席し、卒業証書を受け取ることができる」

 

 「長期目標」にしては具体的すぎるけど、この目標には、心理面、行動面、健康面、学習面、社会性、コミュニケーションなど、あらゆるスモールステップの想いがこめられています。
 だから、卒業式を偶発的に欠席してしまえば、この目標は達成しなかったのかというと、そうではありません。

 ついにその日が来てしまいました。

 私の教職人生の中で、これほどまでに濃密に関わった子はいませんでした。
 通級としての機能をはるかに超えて、枠を超えて、関わりました。
 ただ、最後には段々とフェードアウトしていきました。
 映画「英国王のスピーチ」に登場する言語療法士のように、初めはスピーチの仕方を指示していたけれど、最後は何もせず、じっと温かなまなざしで見つめるだけ。丸ごとのあなたを受け止め、未来を信じるまなざし。
 

 
 
 ここまでたどりつくのに、どれだけの支援の手が加わったか。
 いや、一番がんばったのは、君自身ですね。
 学校は恐怖、不安の対象だったのに、最後の年は「楽しかった」で終われたこと。

 握手の中に、6年間の全ての想いが、お互いにつまっていましたね。

 君から頂いた手紙に涙。
 そして、お母さんの涙。

 
 
 
 ガッコウの先生、たまに自分に合っているのだろうかと思うこともあるけれど、やっぱりやってよかった。人の役に立てて良かったなあと。人の人生を変えるとても重要な仕事。

 短所をつっつくのではなく、長所を伸ばすこと
 不安や恐怖を否定するのでなく、ありのままに受け止め、本人と相談しながら進めること。
 
 
 そして何よりも、
 子どもの未来を信じ続けること。

 
 
 子どもは変わり得る存在。私自身も大きな学びを頂きました。

 卒業、おめでとう。

 20歳になったら、一緒にお酒を飲もうね。
 私はあまり飲めないけれど、ぜひ大人になったら顔を見せてほしい。


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第11回言語聴覚士国家試験 5 聴覚的短期記憶

第11回午前第27問

短期記憶の容量として適切なのはどれか。


1. 3±1項目
2. 7±2項目
3. 12±2項目
4. 15±2項目
5. 20±2項目

***
ヒント

マジカルナンバー7。
でも覚え方によっては、7桁を超えて覚えられたりします。
単純な聴覚的短期記憶が苦手でも、方略の生成
(解決方法を考えて編み出すこと)の力が高いと、
それで補える可能性が。

だから、他の下位検査と比較しなければいけないでしょう。




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道徳教育

文部科学省は新たに、道徳のテキストを発表しました。

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/doutoku/

ざらっと読みました。

感想は・・・。
「子どもはこんなに規範意識がない。悪い」
と言われ続けたような感じです。

私は哲学専攻で、しかもカントの道徳哲学でした。
だからというわけではないと思います。
「違和感」を禁じ得ません。

私自身はどちらかというと、自分のためというより、世の中のために生きていきたいという指向が強いと思っています。
でもこのテキストを読んで、ちょっと嫌な気持ちになりました。
「おしぎせ」な感じがしたからです。


今のあなた方は、「権利>義務」でしょうと。
「権利<義務」にしなければいけませんよと。

ルールを守りなさいと。

でも、「ルール」はみんなで話し合って変更できますよ、が書かれていない。

私の好きな「マザーテレサ」も、紙幅の関係もあるでしょうが、まとまりすぎて、表現が無難すぎて、結局何を書いているのかわからない。
偉人の紹介やことばは、表面的にしか感じられない。
紙幅の関係でしょうけれど。
別途、偉人伝を読めばいいのでしょうけれど。


東日本大震災の時、救助された人の8割は、消防や救急隊によってではなく、地域の人の「共助力」によって助けられたのだそうです。
あれだけの震災だったのに、諸外国の人から見れば、整然と並んでいる姿に驚いたとか。

そして、法務省のHPを見ると、少年犯罪は低下の一途をたどっています。
そして、日本は、先進国中で、犯罪率が非常に低い希有な国なのです。

ただ、児童虐待の認知件数はうなぎのぼり。

「おまえたちは人権ばかり主張して、ルールを守らない。日本人としての自覚を」
でも、もっと現在の国民の良いところを取り上げて、自尊感情を育てないと。
「ルールを守りなさい」だけでは、この国に生きていきたいという気持ちが起こらないのでは。

「自由ばかり主張していると、他人とぶつかるから、自制しましょう」
ではなく、他人の人権も尊重しましょう、お互いの人権を尊重しましょう、ではないかな。

日本は、そんなに「規範意識」の低い国ですか?


***

難病指定が56疾患から大幅に拡大し、負担割合が議論されています。
難病に救済の手を、と人権を主張するのは、イケナイことなのでしょうか?

***

子どもに義務を教える前に、大人がしなければならないことがあるのでは。

子どもが朝起きたら、もうお母さんは仕事で居なくて、テーブルにはコンビニのおにぎり1個が置いてあればまだいい方。
夜中も仕事で帰ってこない。
朝は疲れ切っていて、子どもどころではない。
親も労働者としての人権が蹂躙されているわけです。

それが実態。

なのに、家族にはこんないいことをされているから感謝しましょう、とばかり、お母さんが朝食を作ってくれている写真なんかが載っていたりして。

テキストのめざす理念と、現実との間の乖離が大きいなあと。

この国に生まれ育って良かった、が感じられて、初めて、国のために、世の中のために、が育つのでは。

特別支援教育の私の臨床では、みんなで話し合ってルールを決めて、実行して、勝負がどうあろうと楽しかったね、で終わる。
公共心とか、道徳心とかは、こうした実体験の中で育ちます。
「考えてみよう」と言われても、ピンと来ませんね。

今は人と人とのつながり自体が希薄になっている。
道徳というより、もっと力を入れてやらなければならないことがあるのでは。
学校という集団の意義は、希薄になった人間関係の中で、ますます重要度を増しています。
失敗もあるでしょう。
本来は地域でもまれ合って学校に上がってくるところを、学校に上がってから教えなければならないという面は確かにあります。
失敗もあるだろうけど、もっと子どもたちを長い目で見る必要があるのでは。
経験の中で学ぶのが、「道徳」のはず。

経験の中で、「この人のようになりたい」を学ぶこと。

本を読んでも、あこがれの人というのは生まれるでしょう。
でも、偉人伝のつまみ食いでなく、その人の生涯という全体的、継次的な扱いをしないと、意味がわからないですね。

やっぱり「伝記」は大事ですね。

私が道徳の授業をするとしたら、このテキストは使わないかな。
そして、経験の中で、互いの人権尊重と、ある偉人の話を徹底的に掘り下げるかな。


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第14回言語聴覚士国家試験

このシリーズでは、当ブログのリピーター以外の方からもアクセス頂いているようですので、続けます。
勉強にもなるので。

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午後
第68問

3歳児健康診査の項目で適切でないのはどれか。


1. 自分の姓名を言う。
2. まねて丸を描く。
3. 長い、短いがわかる。
4. ままごとで役を演じる。
5. じゃんけんで勝負を決める。


ヒント
子どもの発達を理解しているとできる問題。
じゃんけんは3歳児には難しいでしょうね。
三すくみの概念は難しいし、チョキが出せるかという手指の運動能力の問題も。

それ以外は、3歳児の段階でできる子が多いわけです。

遠城寺式乳幼児分析的発達検査法などを参照して。

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難病、障害と就労、特別支援教育



「同じ難病であっても、一人一人みんな違う」

歩行に若干の制限はあるが、コピー機まで歩いて行ける。
でも、動線に電源コードが横たわっているので、足をひっかける恐れが。
担当者と話し合い、電源コードは付け替えて、動線から除去できることに。

そこで働けるかどうか、実際に動いてみて確かめる作業により、
できることとできないことが明確になります。

このことにより、障害だから、難病だからできない、ではなくて、
むしろできることが明確になる。
それは職場にとっても本人にとってもすばらしいこと。

特別支援教育も全く同じ発想。

先日、「言語障害特別支援学級の備品、消耗品は、どんなものを依頼したらいいのでしょうか?」
という質問が、他校から来ました。
年に1回は、この手のご質問を頂きます。
確かに、それぞれの障害に必要な備品というのもありますし、教室開設時に買わないと、高額な物はほぼ二度と買えない、というのが、学校の仕組みなのです。
だから一般的なリストは作ります。

が、一番必要なものは、その学級に就学予定の子の担任の先生にうかがえば?ということなのでした。

そして一般的な物品をリストアップしても、それを使える先生が赴任するのか、それが一番の問題だったりします。

鼻息鏡を買っても、使えなければゴミと同じ・・・。




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タブレットもいいけど、児童図書も 地方財政措置



タブレットもいいけど、児童図書も 地方財政措置
私の生まれた頃のうん十年前の児童図書、私が小学生の時に使った百科事典など、まだまだ陳列。
子ども一人当たりの図書数は全国平均だけど、内容は学校図書としてはお粗末です。
それでも、最近学校図書に配分される予算が増え、数百冊ずつ更新中。
でも全部更新にはあと20年はかかるでしょう。
それに、学校図書司書教諭が配置されているでもなく、更新時事務が過重な負担に。
学校図書の専門家によると、平均8000冊の学校図書は、10年で更新すること、図書室は複数学級の児童が入れるスペースがあり、閉架書庫を格納できる部屋もあること。
これが、望まれる姿だそうです。
うちの学校には図書室さえなく、各学年の空きスペースに、本がばらまかれています。
一元管理ができないので、必要な図書の選定も難しい。
どうしてこんな校舎の造りにしたの?と問いたくなります。
おまけに、図書費は地方財政措置なので、自治体で違う目的に流用可能。
これが図書整備の遅れに拍車をかけてきました。
先進国の中で、学校教育費の割合が少ない日本。
改善の兆しは見えたものの、ネット検索だけでなく、実物でページをめくってということも大切にしたいものです。
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ワハハハ、ウヒャヒャヒャー、ああ楽しい。



笑いが止まらない。
楽しい。
楽しい。
「笑顔がエビデンス!」

まさかこんな日が来るなんてね。
その時は思いもしなかった。
信じ続けて良かった。
少しずつ。少しずつ。
ほめて、ほめて、ちょっと背中を押して、またほめて。

そして「甘やかし」という不理解と戦い。
大人のペースに合わせるな。
子どものペースに合わせよ!


実質、6年間のつきあいだもの。
学級担任には味わえない。
長い目で見つめ続けられる通級担当。

卒業式は涙で直視できなさそう。
放送室で隠れて泣いています。

人は変わり得る存在。
長い目で見つめること。




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要支援児が増えたのか、「精度」があがったのか

前任校での会議に出席しました。
相変わらず、立派な校舎で、10年の月日を感じさせない堅牢でおしゃれなデザイン。
職員はあれから全て入れ替わりましたが。
ある学年の教室を通りかかると、空き教室が。
学級減です。
にぎわいが、かつてとは明らかに違う。
10年前と比べて、新1年生の数も半分ぐらいになるのでは。
でも、通級児童数は、増減はあるものの、私がいた時代と揺れ幅は変わらないようです。
支援の必要な児童が相対的に増えたのか。「精度」が上がったのか。
よくなされる議論ですが、どちらにせよ、子どもたちには、幸せになってほしいです。


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「記述」よりも「技術」を



なにやら最近、支援者による「記述」へのこだわりがあるようですが。
読んでも「中身」がないのでした。
「日記」とどこが違うのでしょうか。
客観的な科学的記録ではなく、指導者側がどう感じたかを「記述」する事で、子どもの姿がありありと浮かんでくる、との考え方によるもののようです。
 そして、その「記述」を回覧し、「読み手」の指摘によって、客観性の確保がなされるとの主張のようです。
でも、実際の指導場面を見ないと、指摘などしようもないわけです。
文字を媒介してしまうことで、情報は単純化、記号化し、子供の実態からかけ離れてしまう。
確かに、客観的な科学的合理主義を子ども臨床に当てはめることに異議を唱えるのには、一定のインパクトがあり、理解できるところもあります。
「課題ができる、できない」だけでなく、子どもがどう感じたか、支援者がどう感じたかを省みるのは、たいへん重要なことですし、見落としがちであることも認めます。
だから、支援者と子どもとの関係性に着目し、気持ちを省みる「記述」の試みがあるのでしょう。

しかし、指導の様子や感じたことを文字化、記号化すること自体が、客観化の営みそのものであるという自己矛盾をどう説明するのでしょうか。

大切なのは実際の指導場面をお互いに参観しあい、協議すること、経験の長い先生のスーパービジョンを得ること。経験の長い先生が減った今、実務の中で研修するOJTこそが、今の研修に求められることです。

「正しい発音ができるようになって、満面の笑みをうかべる子どもの姿を見て、私もうれしくなりました。」

これは実際の話ですが、「記述」とは、たとえばそういうことなのでしょう。
しかしこの子の場合、どんな子どもの状態像があって、構音の状態はどうで、どういう指導手順を踏んだのかという客観的な考察を軽視してはなりません。

精神論だけに走ることの危険性を想うのです。
母親の接し方が悪かったから、という結論になりがちです。
元々そうなりやすかったという個体差を無視するのですね。

きれいな「記述」に時間をかける暇があったら、技術を磨く、子どもの遊びにつきあう、同僚に相談するということが大切です。
そうでなければ、「記述」は単なる自慰行為でしかないのです。

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成人期の発達障害



『こころの科学 2013年9月号 成人期の発達障害』
 http://www.nippyo.co.jp/magazine/6235.html


色々考えさせられました。
高校までは、ちょっと変わったところもあったが、それほど困ることなく無事卒業。
しかし就労してから、人の気持ちのオモテ、ウラが多くて混乱した事例。


逆に、小さいときは自閉症としての支援を受けてきたが、
40歳を過ぎて、コミュニケーションスキルが著しく向上した事例。


そこには、「診断」「判断」「検査」とは別に、「人」を長い期間で
見ていくことの重要性を感じました。


就労に関しては、仕事の能力そのものよりも、対人生活や日常生活スキルなどのソフト面でのトラブルで辞めていく人が多いと言うことも、改めて示されました。


「大人になったら自然に治りますよ」は違う。
逆に
「障害なのだから、一生変わらないですよ」も違う。


小学校教員として、その子の将来を見据えて、支援の優先順位を見定めることの必要性を改めて考えさせられました。

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「学校は勉強するところ」の勘違い



確かに勉強するところなのだけれど、勉強だけをするところではない。
勉強だけが目的なら、全ての子どもは、自宅で動画を見て勉強すればいい。
あるいはアプリで学習を。
その方が、「質」は高いかもしれない。

でも、なぜ子どもたちは一カ所に集まるのか。
「学ぶ」だけでなく「学び合う」ためでしょう?
つまり、友達と出会って、社会性、コミュニケーションが育つ場。

「学習」以前に、マズローの基本的な要求が満たされていない子が多くいます。
つまり、生活すること、生きることそのものが安全であるのか。
学校は、そうした中で安全基地の機能を果たす面もある。

ネットが家庭にあまねく普及したら、学校は不要になるという極論もあるようですが、そもそも、「学校」を本質的に勘違いしているのではないでしょうか。

そして、支援者は、自身のおいたちの中で、学校をどのように位置づけて生きてきたかが、今の学校観に影響しているという、メタ認知が必要だと思うのです。



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検査の倫理




吃音の通級指導と、検査との関係について質問がありました。
以下、私の回答です。

ーー


検査については、吃音に限らず以下の前提が必要と考えています。

1)支援に生かせるものであること。支援のための検査であること。
2)検査だけでなく、日常の行動観察や情報と付け合わせて判断すること。
3)標準化されたものであること。学術的に広く支持されていること。
4)検査の背景理論を踏まえた上で活用すること。
5)検査は数値だけでなく、行動観察なども含めて解釈すること

客観的なデータは、過信してはいけませんが、アセスメント情報の一部をなすものです。
必ずしなければならないものでもないでしょうし、検査の限界を踏まえた上での活用ということだと思います。
 
ーーー

検査の選択には、各検査の背景理論を理解しておくことが大事です。
とりあえずWISCをとって数字を出すか、というスタンスなら、行わない方がいいでしょう。
背景理論をわかっていれば、選択に迷うことはないでしょう。





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特別支援教育における「都市伝説」

・「発音は自然に治る」
→自然に改善する場合もあれば、そうでない場合もあります。
発音の誤り方や性質、他の要因などを検討し、自然に改善するかどうかを推定し、指導の必要性を検討することが大切です。専門性が必要です。

・「吃音は、場数を踏めば治る」
→吃音は、緊張するからどもるのではなく、どもるから緊張する、というベクトルを無視しています。脳機能の問題から症状が発生しているのであれば、緊張の有無に関係なく症状は出てきます。色々なところへ連れて行って場数を踏めばいい、というのは単純にすぎます。

・「場面緘黙は、自然に治る。場数を踏めば治る」
→思春期を過ぎて自然に改善する事例も確かにあり、かつてはそれが全てと考えられていました。しかし予後調査で、心理的な病、引きこもりなどに至る例も多くあることがわかってきました。まずは安心して学べる場所、人、活動内容を保障し、徐々に他の要素を取り入れて慣れていく系統的脱感作などのアプローチが重要とされるうになってきました。

・「LD、ADHDは脳の微細なキズが原因」
→特別支援教育を動かす立場の方の発言で、ちょっと信じられませんでした。
「MBD」という脳の微細なキズが原因であるという説は、一時はやりましたが、今では完全に否定されています。もちろん脳損傷などにより、脳機能に障害が生じることもありますが、発達性の場合は、CTを撮っても映らないことの方がはるかに多いです。

・「発達障害は、分娩時に薬で時期を調整するのが原因」
→これも立場のある方の発言で、残念です。もしそれが本当なら、とっくの昔に統計的な有意差として報告されているはずですが。自閉症は水銀が原因という説も、世界的な研究で4回も否定されているのですが。

・「検査を行えば全てわかる。面接すればすべてわかる。授業参観すれば全てわかる」
→どれか単独での判断は非常に危険です。それぞれを組み合わせて検討することです。
それぞれは、子どもの一側面を示すに過ぎません。
今回の就学相談でも、面接時の様子しか書かれてない報告書については、全面書き直しをお願いしました。あるいは検査結果だけとか。就学先を決定する立場の人は、責任が重いですから、妥協せず、憎まれ役を買って出て、アセスメントの基本を徹底してきました。


これらの都市伝説は、研修によって回避できるはずなのです。



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『WISC-4の臨床的解釈と応用』何度も読み直しています9 「注意記憶」と「ワーキングメモリ」


注意 / yoppy



「WISC-3の「注意記憶」(被転導性からの解放)は、ADHDを測る値ではない」

WISC-3の「注意記憶」は、「数唱」と「算数」から成り立っていました。
しかし、それらでは、「被転導性からの解放」を測ることはできないし、そもそも「被転導性からの解放」という概念自体がはっきりしているのか、と言われるようになりました。

WISC-3の「注意記憶」では高いのに、DN-CASの「注意」はとても低いということがありました。DN-CASの「注意」の方が、ワーキングメモリの概念に近いのではないかなと。

また、「算数」は、数的能力も関与するので、「注意記憶」の群指数の中に入れることに対して、多くの批判が出ました。

さらに、「注意記憶」とADHDとは、統計的な関連性がない。
だから、「注意記憶」が低いという理由だけで、ADHDの診断、判断はしてはいけない。

「数唱」の逆唱は、ワーキングメモリであるとも言われました。
確かに順唱よりは、ワーキングメモリに近いのでしょうが、WISC-4では「語音整列」を加えることで、よりワーキングメモリの概念に近づいたと言えます。

ワーキングメモリと、短期記憶とを混同している事例も見受けられます。
ワーキングメモリには推理なども加わるし、色々学説があるので、それらを敷衍しつつ、WISC-4は解釈されなければならないでしょう。
「長期記憶からワーキングメモリにダウンロードされる」という表現、おもしろいです。

一方、検査では、聴覚的なワーキングメモリを測っているのであって、そこに視覚的なヒントが加わったら、既に測れていないわけです。

「WISC-4インテグレーテッド版」では視覚的なワーキングメモリが測れるようですが、日本語版はありません。翻訳しているうちに、WISC-5が出たりするかもしれません。


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先生にとっては「練習」、子どもにとっては「遊び」をめざす








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当事者の立場に立った特別支援教育を

昨年のお正月に、私は以下のように書きました。


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「障害とは、理解と支援を必要とする個性」
「楽しさ、安心感があってこそ、能力は伸びる」
「遠くの専門家より、近くの子ども理解者」

自らが難病と障害を背負った今、当事者の気持ちに寄りそう特別支援教育の臨床を一層めざしたいと思います。

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前回の妹の記事について、反響がありました。

記事の主旨は上記の通りです。

「障害はお互い様」
であり、
「私が彼、彼女を何とかする」
ではない。
「ともに歩む」
ということ。

今年もこのことを大切にしていきたいです。

本年もよろしくお願いします。


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