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某公立学校ことばの教室教員。公認心理師、言語聴覚士、特別支援教育士。 『クイズで学ぶことばの教室基本の「キ」』の著者。  SINCE 2000.1.1 
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形ではなく、実質を大切に

特別支援教育の「形」をどのように整えようと、子どもによりそった判断と実践に結びつかなければ、「形」は意味をなさないばかりか、有害ですらあります。

確かに特別支援教育は、一人のスーパーティーチャーが全てを背負うものではなく、教職員等の集団で取り組むべきは言うまでもありません。

しかし、その集団を構成するメンバーに、子ども理解の視点と手立てのセンスがなければ、会議を開けば開くほど、集団で判断を誤るということになります。当事者、関係者の思いから遠く離れた実践になるのです。そうした事例をたくさん、目に、耳にしてきました。

逆に、一人の「スーパーティーチャー」が、バイアスのかかった情報を垂れ流しながら、自己保身に走り、集団を巻き込んでいる事例も見てきました。

特別支援教育を進めるには、構成するメンバーに事実を見抜くセンスと、学術的支柱がなければなりません。
結局は「人」に帰結するのです。
「教育は人なり」なのです。
自戒を込めて。

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子どもの育ちを長い目で見る

子どものそのときの状態だけでなく、過去からどういう経緯で今に至っているのかを見ること。
「今」しか見なければ、「できない子」に見えるけど、過去からの経緯がわかっていれば「こんなに成長したのか」と見えてきます。

子どもの育ちを長い目で見て信じること。
それは子どもにとっても、大人にとっても、大切なことだと思うのです。

今日は参観日でした。
先生方や親御さんに、今日の様子をお尋ねしたり、参観したりしながら、過去からの育ち、プラスの変化をフィードバックさせて頂く機会となりました。

子ども達の笑顔や行動、周辺情報に触れてほっとしました。
幼児からの就学への連結の苦労が報われた想いがしました。

人づてに聞くと、どうしても情報にバイアスがかかりますが、直に訪ねると色々なことが見えてきます。

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新しい先生への研修支援 2

構音障害については、私の「構音の指導研修DVD ver.4.0」を用いた解説。

吃音については、昨年 BS日テレで放映された
「どもってもいいんだよ 僕は吃音ドクターです」のビデオを見ました。
http://www.ntv.co.jp/document/back/201204.html

吃音当事者で、耳鼻咽喉科医師で、吃音の脳科学の最先端をいく研究者である菊池良和さんの出演する番組です。

吃音では、練習目的で言い直しをさせたり、深呼吸してから言ってご覧とか、慌てないで言ってご覧などの注意は基本的に禁忌です。
だまって聞いてあげればいいのです。

ただ、ことばの教室では「楽にどもる」ための練習、発話の流ちょう性を高める練習をすることがあります。
リズム法や、ハミングしてから発話するなどなど。筋緊張のコントロールのために、私はヨーガをすることもあります。
ただ、それらの直接的アプローチは、本人に吃音の自覚があって、練習したいという気持ちがある場合に限られるでしょう。

吃音については様々な考え方があるので、それらの諸説を俯瞰しつつ、子どもにフィットする考え方を採用する、という姿勢が必要と思います。

そして、本人に練習方法の選択をしてもらうことが大事です。

LD、ADHDについては、小学校時代にいかに楽しく生活し、成功体験を積めるかが大事というお話。
自閉症では、「死人の目標」ではなく、イメージしやすい目標設定を。SSTの例。

そして難聴については、自分の体験を交えて力が入ってしまいましたが、

1)遠くから大声でなく、近くから普通の大きさの声で話しかける
2)口元を見せながら話す
3)雑音があると、てきめんに聞き取りが難しくなる。一度に複数の人が話していても聞き取りにくい。
4)周波数によって、聞き取れる音が違う。私は、低音障害型なので、マ行、ナ行が聞き取りにくい。
  「波」が「あみ」に聞こえたというエピソード。
5)学級の席は、窓側の前から2番目が良い事が多い。
6)低学年では、聴覚的弁別や、指示が通りにくい場合などは、聴力検査を。中耳炎や、耳垢がつまって、聞こえが悪くなっている場合もある。

などのお話をしました。

情緒障害(場面緘黙)については、「話さない」のではなく「話せない」こと。敵意をもって話さないのではなく、不安がそうさせているということ。
人、場所、活動内容のうち、人が変わることが一番不安が高まること。
3つの要素を一度に変えず、まず3要素が安定して、安心して生活できるようにし、自分から広がっていきたいという気持ちを大事にしながら、3要素を少しずつ変えてみること。
話す練習ではなく、不安の軽減を目標とすること。首振り反応や筆談、ジェスチャーなどの非言語の尊重。回答を求める質問は控えるが、たくさん話しかけてあげること。
言語発達を評価し、場面緘黙との関係を検討すること。(たとえば、PVT-R(絵画語い発達検査)は、指さしだけで回答できるので、おおよその語いを測ることができる。)

ものすごくかいつまんでいて、ダイジェスト的な研修になりましたが、新しい先生には、だいたいの雰囲気を掴んで頂くのが目的でしょうから、その目的には叶っていたと思います。

コメントやツイッター等で質問、要望も頂いていたので、ちょっとお裾分けでした。

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新しい先生への研修支援

当教室では半分の先生が人事で交替したため、新しい先生への研修をとのことで、4日間、シリーズで行っています。

おおまかには、

1 構音障害の理解と指導
2 吃音の理解と指導
3 言語発達遅滞、その他発達障害の理解と指導
4 通級指導教室のシステムについて

などとし、
ところどころ、自作教材を紹介しながら、体験から抽象的な理論へというベクトルを心がけています。
教材紹介は、子ども理解をとばして、その教材をそのまま使えば良いという誤解を招きやすいのですが、新しい先生には「明日の指導をどうしたらよいか」という切実な問題があります。
そこで、教材の目的、対象となる児童、ならない児童の考え方を必ず添えて、教材紹介を行っています。

また、ビデオやパワーポイントを多用して、視覚的なわかりやすさを心がけています。

一方、今年度2回予定している公的な研修講座についても、何ヶ月先の講座の申し込みが、新しい先生を中心にもう入り始めています。
これはかつてなかったことです。

新しい先生の研修意欲に応えていきたいと思います。
今年で私の通級指導教室経験年数は、17年目となりましたが、15年以上の経験者は、この地方では3名しかいません。

「伝承の危機」を感じながらも、一方では、先生方の学びたいという意欲を感じています。

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5歳児健診

報道にもあるように、予算案が議会を通っていれば、今年から当自治体でも、5歳児健診が始まります。
1歳半健診や3歳児健診では心配がなくても、幼稚園や保育園などの集団生活を過ごすようになってから、心配なことが出てくることがあります。
何でも早期発見すればよいというわけではないでしょう。
しかし一方では、就学相談に携わっていると、もう少し早く支援につながっていたら、と思うことがあることも事実です。
5歳児健診では、そうしたお子さん、ご家族へのサポートのきっかけとなればと思います。

課題は、該当幼児(いわゆる「年中さん」)が毎年1000名にも上ることです。
既存の医師や臨床心理士、発達支援センター職員等が依頼業務として引き受け、支援の必要な事例については、経過観察や訪問などのフォローをするわけです。

「発見」はしたものの、その後のフォローをどのように進めるかが課題になると思われます。

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学級担任のナイスプレイを支えるのが通級担当の役目

学級担任批判はだれでもできます。
評論家はだれでもできます。

そうではなくて、学級担任の工夫なり、柔軟な対応なりを支えることが務めなのです。

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個別的知能検査は要らない!

という主張があるということも、知っておくことが大切と思います。
「RTI」です。
個別的な知能検査ばかりか、学力検査も必要がないと主張。
まずは通常の教え方をしてみて、反応がなければ、カリキュラムを変えてみて、それでもだめなら個別的な支援を行う、というもの。

知能検査の結果と、学力検査との間に差異(ディスクレパンシー)があることが、LDの定義なわけですが、そのこと自体も批判するし、IQも含めての異議申し立てなわけです。

こうした考え方に触れることで、逆に知能検査の意味、子どもをどう理解するかという原点を振り返るきっかけになるのではないでしょうか。

知能検査をあまりにも重視して、本当に子どもの力を反映しているのかという視点がおろそかになってはいけないでしょう。
逆に、全く否定してしまえば、その子がなぜつまずいているのか、どのような手だてをとったらいいのか、の客観的な理解、判断が難しくなります。

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新年度こそは、「再び結び合わせる」

途中まで紅白を観ていましたが・・。

ベートーベン作曲 交響曲第九番 「歓喜に寄せて」

右耳の聴覚補充現象がうるさいですが、左では聴こえているし、魂には響いてきます。
やっぱり年末はこれですね。
日本独特の習慣のようですが、いい習慣だと思うのです。

シラーは本当は、「歓喜」(フロイデ)ではなくて、「自由」(フライハイト)と唱いたかったようですが。

「時流がむごくも引き離したものを あなたの魔力は再び結び合わせる」

宗教は英語で、「リリージョン」といいますが、「再び結び合わせる」という意味だそうです。

特別支援教育は、宗教とは違いますが、

むごくも引き裂かれてしまった

子どもと学校との関係を
子どもと家族との関係を
子どもと社会との関係を

再び結び合わせる。

そして様々な困り感から「自由」に向かう手助けすること。

それが特別支援教育なのだろうなあと。

私には魔力も何もないけれど、シラーの詩をもう一度胸に刻み、新年を迎えたいと強く思いました。
そしてベートーベンは、聴衆の割れんばかりの拍手が聞こえなかったそうですが、長い年月を経て、その楽曲は今、私の心に響いてきています。

皆様、どうか来年も、良い年でありますように。

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「あなたとは違いますから!」???

「あなたとは違いますから!」
とは、某元総理大臣の記者会見での発言・・・。

以下は、それとは主旨が違う話ですが。

「あの人はこういう人。私とは違う」
という論調があります。

怒りっぽい人をみて、私とは違う。
悲観的な人を見て、私とは違う。

はたして、そうでしょうか。

誰にだって、怒りたくなるときがある。
誰にだって、泣きたいときがある。
誰にだって、絶望に落ちるときがある。


だからこそ支援者は、その本人の苦しみを自分のこととして感じ取り、共感するのでなければなりません。

たいてい、他人の問題を指摘する人は、自分にも当てはまることに気づいていません。
彼の、彼女の問題は、自分自身の中にもある、と支援者は見抜かなければならないのです。

しかし、支援者自身も、自分に余裕がなくなると、他人の気持ちに共感することが難しくなります。

そうした時は、少し休むことが必要ですし、
自分の出番ではないと、きっぱり他人に任せることも必要でしょう。

それができるのが支援者なのでしょう。


ちなみに、私の病気は、静養と運動の両方が必要です。
ゆっくり寝ているかと思えば、急にウォーキングを始めたりするので、
家族でも理解が難しいかもしれません。

昼間は活動的に仕事をしているように見えても、寝る時間が一時間狂うと、
翌日ぐったりしてしまいますし、耳鳴りや、聴覚補充現象がひどくなってしまいます。

周りに理解されにくい障害や病気があるのだということ。

メニエール病は、誤解されやすい、理解されにくい病気の代表のひとつです。

レッテル貼りがはやっているから、と単純にとらえられるものではないのです。

誤解されやすい障害、まさに私たちが扱っている領域ですが、
それは病気にもあります。

一昔前までは、「LD児なんていない」と言われていましたね。

「自閉症で、感情のコントロールが難しい子にどう指導したら」
という相談を受けることがあります。

「自閉症だから」という前に、自分自身にも、感情のコントロールができない
時はなかったか、と問えば、そこに答えがあるように思うのです。

もちろん、自閉症の特性をとらえての対応は必要ですが、
やれ「アンガーマネジメント」だの、すぐ方法論に行ってしまうところに、
「共感」の二文字が入る余地はあるのでしょうか?


今日はマイナス30度近くの厳寒の地もあったようですが、
他人の問題を自分のこととして受け止める人が増えれば、
もっと世の中は温かくなるだろうと思うのです。

語ることばの中に、"You"  とか、 ”He” とか、She” とかではなく、
"We" を増やしていきたいと思うのです。

「障害はお互い様」の地平に、支援者は立たなければならないのです。

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4歳児の歌詞の再生能力

「大きな古時計」
 

「♪ おじいーさんと いっしょに チク タク チク タク 

  いまはっ、もう、うごかない、おじいーさんのー おじさんー ♪ 」
 

(なんで、そんな遠い親戚なの?)


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通級の親子を必ず玄関先まで見送る

通級児童と親御さんが教室から帰宅するとき、必ず玄関先まで見送ります。
先輩がそうしていたことをいつのまにか、模倣していました。
いや、一度だけそういうことの大切さを教えて頂いたかもしれません。
親の会会長にも、当時青二才の私に教えて頂いたことでした。

校舎の構造にもよるかもしれませんし、次の子が来ていて時間が押している場合もあってできないこともありますが、主人公は親子であることを形に示すこと。


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誤嚥性肺炎と「印象」との乖離~先入観を超えたい

最近、誤嚥性肺炎で亡くなる人の割合が、3位に上昇したそうです。
実習生が言っていました。
一見、体力があって、元気そうに見えるのだけれど、嚥下の能力は低下しているのですね。

それと、老人の肺炎で亡くなる人の多くは、実は誤嚥性肺炎なのだとか。

医療関係者でも、嚥下のためには、ベットの角度を30度にした方が良い、
ということを知らない方が多いそうで。

むせているのに、角度を全くつけずに、背臥位(あおむけに寝る)のまま、食事させている例すらあります。

ところで、

「一見したら元気そう」
「一見したらちゃんと席に座っているから大丈夫」

こうした感想を聞くことがありますが、私が見ると、全然そうは見えないのでした。
肩が緊張して、地に足がついていない、高緊張の状態が見えたり、
一見笑顔でも、精神運動がかなり低下しているのを感じてしまったりします。

どうやら見える人と見えない人がいます。

子どもの行動の意図や背景の読み取りが苦手な支援者がいます。
だから、思いつきで解釈してしまう。

よく見える支援者からアドバイスを受けたらいいと思います。
支援者だって、遠慮なく支援を受けていいのだと思うのです。
そういう私自身も、見逃すことがあります。

きれいな文書を作って発信することばかりに時間をかけるのでなく、
その都度、相談、協議することにもっと時間を割いた方が良いと思うのです。



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トートロジーを見抜く四歳児

子「なんで車は左に曲がるの?」
私「右じゃないから」
子「何で右じゃないの?」
私「左だから」
子「それじゃわからん!」

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頼もしい新人たち

「ya先生、指導を見せて下さい」とわざわざ車で数時間のところから見えた新人の先生。
「相談に乗って下さい」と積極的に質問をしてくださる一人教室の先生。
「この本のここの意味を教えて下さい」と、短期間のうちに、よく文献に目を通しておられる先生。

私たち経験の長い職員は、こうした新しい先生の研修ニーズに応える責務を負っています。

明日の研修会では、基礎的な知識の講座を中心とした内容にしたところ、かつてない規模の
参加申し込みがありました。中には1年、2年ぶりという方まで。

ここに研修ニーズはあったのです。

単なる「思いつき」の独善的な内容には、聞く耳を持つ必要を感じないのです。
公務員は全体の奉仕者なのです。個人的なパフォーマンスをやりたいなら、
独立して民間でやればいいのでないでしょうか。

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発達を理解しないと、発達障害も理解できないですよ

構音指導の前に、十分遊んだ方がいいなあと思うことがあります。
からみあったり、くすぐりあったり。

発達が5歳ぐらいの子であれば、生活年齢ではなく、5歳に合わせた指導をすればいいわけです。

どうして生活年齢に合わせる必要があるのでしょうか?

社会に出たら縦割りの人間関係です。
同じ年齢の人が何十人も同じ部屋で仕事をする職場なんてあるのでしょうか?

同じ年齢同士で比較して、できる、できないなんていうのは、学校生活だけです。
その学校生活も、人生全体の長さに比べたら、ほんの一瞬です。

ならば、その子に今必要なことに合わせるのが一番いいのでは?

土台が積み上がっていない段階で、発音だとか読み書きだとか、バランスが悪いですね。

適時、適切、適量。

それは通常学級で支援員がつく、というだけではやりにくい、やはり個別指導の良さなのです。

個別だからこそ、十分に栄養を与えられることもあるのです。
集団との上手な使い分けによって。

個に合わせるためには、子どもの発達を見立てられなければなりません。

いわゆる標準的な発達というのがどういうものなのか。
それがわからなければ、発達障害もわかりません。

某初心者向けの研修会では、生育歴や発達の知識をたくさん教えられたという話を聞きました。
小手先の技術の前に、子どもを理解すること。

小手先の技術なんて、「コー○○○フォー」に行けば、いくらでも並んでいます。
特別支援教育コーナーや幼児教育あたりに行けば。

お口をいじる前に、先生の脚に抱きつく幸せを味わう段階ではないですか?
それさえも難しい家庭環境という場合もあるし、今がやっとその時期になった子だっています。
小手先の技術に走ると、そこから大きくずれていくのです。

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誤診

『こころの科学』2012年7月 日本評論社

「誤診」についての特別企画です。

発達障害の診断基準は、料理のレシピのように「いくつ当てはまる」という使い方ではなくて、多軸的であることと等により「活用」するものだという点に頷きました。

発達障害を統合失調症と誤診する例が多い、という新聞記事が先日載っていました。
杉山先生も、薬の処方の仕方が変わる、とおっしゃっています。

この文献では、どちらかをはっきり区別することが難しい場合も少なくなく、薬によって精神症状が安定しても、今度は自閉的な特徴が出てくることもあり、合わせ有することがある、と指摘しています。

また発達障害は、環境との相互作用のあり方の違いにより、その特徴が際立ったり、目立たなかったりすることも多い、というのは成人も同じこと、と。


私たち教育の場でも、子どもとつきあううちに、新たな発見をすることも少なくありません。
一回会っただけで全てを理解するというのは困難であり、就学措置の判断、通級妥当の判断は、可能な限りの情報集をした中で、その時点で最善と思われる判断をしなければなりあません。

ただし、構音障害の評価は、きちんとやれば誤診を防ぐことができます。

1 引き継いだ音だけではなく、他に音がないかどうか、音の全体を見ていくこと
→ さもないと、指導の順序を間違え、卒業まで改善しないまま、という事態が起こってしまいます。

2 置き換えなのか、歪みなのかの鑑別
→構音の評価は、「聞いて、見て、触って」
聞くだけでなく、舌の動きをペンライトをあてて見る、可能であれば、指を入れて呼気を感じ取る。
鼻漏出がないかを確かめる。口腔内視診などにより、器質性がないかを判断する。

評価を間違えると、指導も大きく間違えるのが、構音指導です。
センスが問われます。



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日本LD学会第20回大会

このシンプルにして重みのある大会名。詳細は後日 >にほんブログ村 教育ブログ 特別支援教育へ
 


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【研修報告】 ”LD”="low" もあるけど、だめじゃない

札幌市自閉症・発達障がい支援センターおがる 所長の 加藤 潔先生の講演を聴きました。

明るく前向きな「障害観」が、ユーモアたっぷりに語られていて、講演後のアンケートでは、「勇気づけられた」、「前向きに」といったポジティブな感想がたくさんありました。
(一応、私も主催団体の役員なので、アンケートを見せてもらえたのです)

LDは、「学習障害」ですが、加藤先生によれば、
LD=L("low”もあるけど)、D(だめじゃない)

ADHDは、注意欠陥多動性障害ですが、
ADHD=A(あきっぽいけど)、D(だめじゃない)、H(ハラハラするけど)、D(だめじゃない)

なのだそうです。

「点字は、目が不自由だから使うのではなく、触覚が優れているから使う」という表現にも、ICFモデルの「障害観」の本質が表現されていると思いました。

***

この講演に先だって、私は今年も講座を担当させていただきました。
教材紹介を中心にし、参加型の講座にしました。
アンケートを見ると、「あっという間で楽しかった」、「時間がとてもたりなかった」、「もっと聞きたかった」、「教材はこのように作るのかととても勉強になった」という主旨が多く、ありがたく思いました。

顔見知りの方、懐かしい方も今回は多く参加されていて、「縁」というものの尊さを感じました。

事前事後に、参加者から何ケースか個人的なご相談を頂いたのですが、短い時間なので、「つなぐ」のが精一杯でした。
つなぐ先は、私自身だったりする場合もありえるのですが。

***

先週は、就学指導委員会での研修講座、校内の通級についての研修、そして今回の講座と、3つの準備と発表を同時にしながらの生活でした。あまりに忙しいと、もう笑うしかありません。



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【研修報告】児童精神科医 門 眞一郎氏 講演会

 門先生は「自閉症スペクトラム障害」について、「発達がデコボコしていると言われますが、『ならして平らにしなければならない』というイメージになってしまいます。私は『でこぼこ』ではなく、『発達にメリハリがきいている』と表現しているのです」
と述べました。

 また「障害か、特性か」とよく言われることについて、「特性(メリハリ)は、度が過ぎれば障害レベルに至り得ます。(障害と特性とは)連続体であり、流動的です。支援の質と量によっても変わるでしょう。だから、あれかこれか(障害か個性か)の問題ではないのです」
と話しました。

 後半は、自閉症スペクトラム障害のある人に対する「視覚的構造化」の重要性について話がありました。
 「人とのコミュニケーションは、ことばだけはありません。視覚的な手がかりでコミュニケーションができるなら、それが大切です」
 
 「視覚的構造化は、自閉症の人に対するだけでなく、世間一般に急速に普及しています。
 銀行の受付待合人数の表示や、横断歩道の残り時間の表示、バスの優先席の対象をマークで示す、などです。
 『世間一般では視覚的構造化がされていないのだから、学校ではことばに慣れさせなければ』という先生がいますが、全くの間違いです」
と力を込めていました。
 
 最後に、「自閉症の医学的な診断基準は問題点や不得手なところばかり取り上げています」と述べ、肯定的な記述のされた「アスピーの発見基準」の紹介がありました。
 
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下司昌一先生ご逝去

下司先生には、2年前に札幌市で開かれた、特別支援教育士養成セミナーで、
「学校における支援体制Ⅰ:通常の学級における支援」のご講義を受けたのが
私にとって最後になりました。

 講座の最後に先生がおっしゃっていたことが印象に残っています。
 つまり、
「昨今はめまぐるしく学校教育を変えようとしている。
しかし、教育は長い歴史をの中で積み上げていくものだ」
という意味のことをおっしゃっていました。

その時示された「長い歴史の中で築かれてきた建造物」
のパワーポイントの写真が、今でも目に残っています。

私が日本LD学会に出席するようになってから、
一番印象に残っていた先生のお一人でしたので、
とても残念です。

しかし、先生の功績を、残された私たちが継いでいかなければなりませんね。


訃報に接したときに、必ず思い出し、自分自身に問うことばがあります。

「人間の真価は、その人が死んだとき、なにを為したかで決まるのではなく、
彼が生きていたとき、なにを為そうとしたかである」 山本周五郎

地位欲、名誉欲など自己保身のためなのか、
それとも本当に他人を大切にしようと思ってなのか、
いつもこの視点を大切にしたいと思っています。

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通級の指導目標を検討する 6

「楽しく遊ぶことができる」

この目標には、いろいろと検討すべき内容が含まれています。

まず、楽しく遊ぶこと自体は、通級でもっとも大切なことです。
(通級に限らず、学びが楽しいということは、教育の基本なのでしょう)

「楽しさ、安心感があってこそ、能力は伸びる」

子どもの発達支援を考えるSTの会の主催 中川信子先生のことばです。

また先生は、
「笑顔がエビデンス」
ともおっしゃっています。

指導内容、方法の「科学的根拠」はもちろん大事なことですが、
子どもの笑顔があってこそ、その内容、方法が子どもに合っているということですし、
一番大事にしなければならないこと、だと思います。

そのことを前提にした上でですが。

「楽しく遊ぶことができる」

これはたとえば、テレビゲームを一時間いっぱいやったとしても、
目標は達成ということになってしまいます。
(もちろん、そうしたアプローチが必要な子もいますが)

楽しさの中身、子どもの育ちをどのように手助けしていくかという観点を
抜いてはならないのでしょう。

・ルールを理解し、守ることで、ゲーム自体の楽しさを体験することができる。
・話し合いの中で、自分の意見と他人の意見とを理解、比較して、
折衷案を提案できる。
・負けても物をたたかず、ことばで悔しさを適切なことばで表現できる

などなど、様々な下位目標が考えられるのでしょう。



さて、何回かに分けて指導目標を検討してきました。
最後に一番大事だと思うこと。

それは、
「○○させる」とか「○○できるようにする」という表現は、大人目線だということ。
支援者が子どもに、という視点です。
「○○できる」とか「○○できるようになる」
つまり、子ども目線で目標を設定すること。

そして、「○○できる」こと自体が、子どの「人生の文脈」にとってどうなのか、
本人にとってどれだけの価値があるのか、という洞察があって初めて、
子どもを主役にした指導目標が設定できるのでしょう。

支援者はあくまでも脇役、黒子、助産師です。

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通級の指導目標を検討する 5 「○年生の漢字のすべてを読み書きできる」

「○年生の漢字のすべてを読み書きできる」
私自身を含めて、通級の指導目標に教科の補充指導を掲げる場合があります。

これには2つの意味があると考えます。

1 実際に通級で、漢字の読み書きの達成をねらった直接的な指導を行う
2 通常学級での教科学習を支援するための自立活動を通級で行い、
  「結果として」漢字の読み書きが一定程度できる。

週の限られた通級時間で、1を直接ねらうことはできるでしょうか?

LDの通級では、言語障害など他の障害とは違って、
自校通級の割合が多いですし、指導時間も多いです。

つまり、従来の言語障害の通級時間枠「週1~3時間」だけで、
しかも他校通級で、教科の達成を狙うことが、果たして可能でしょうか。

きわめて難しいと言わなければなりません。

通級対象が拡大したのは結構なことですが、
実質的にどれだけのことが可能なのかという地道な検討なしに
進んでいるように思えます。

日本LD学会の発表論文でも、従来の指導時間だけでは
教科の補充指導は難しい、と書かれています。

通級のまず本筋は、「教科の補充指導」ではなくて、「自立活動」のはずです。

最近届いた全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会の冊子にも、
「最近は、ことばの教室からまなび教室への移行が増えている。
学力向上の世論に押されて、通級もその影響を受けている」
という趣旨の意見が載っていました。
(正確な表現は忘れましたが、そんな趣旨でした)

「ゆとり教育」という造語が流行し、「学力低下」の原因はそれだと吹聴し、
基礎基本を通級でというようになってきました。
(本当に学力が低下しているのか、というクリティカルな検討なしに、
無批判に広がってしまったことに、危険性を感じています)

学力は低下するよりは向上した方がいいのでしょう。
しかし、たとえば、「高い-低い」の対概念が獲得されていない段階で、
「高」(2年生で登場する漢字)の読み書きを教えて○をつけることに、
どれだけの意味があるのでしょうか?

まず、高い、低いの概念を育てるための遊びの関わり、
つまり自立活動が必要なのでは?
そうした自立活動ができるのは、個別指導ならではのはず。

「高い、低い」は、「大きい、小さい」とは違うし「長い、短い」とも違う。
また絶対値ではなくて、比較対象や自分の立ち位置によっても、
「高い低い」は変わる、という理解も含めて。

まずはそこでしょう。

子どもへの加重な負担になっていないか、ということもとても懸念します。

通級は、関係者の主訴をそのまま採用して指導する場ではありません。
様々な背景情報をもとに、その子にとって今一番大事な関わりは何かを検討する場です。
「学級でこの問題が解けなかったから、通級で指導してください」
などという依頼を受ける、と聞いたことがあります。

通級担当は「はい、わかりました」というのが正解でしょうか?
私なら「なぜできかったのかを一緒に考えませんか。
そして通級ではそのできなかった背景を探り、背景にアプローチをしてみたいのですが」
とお答えすると思います。

「学力低下のせいで、漢字が読めず、企業で使えない」ということばを聞きますが、
ぶっちゃけ、読めないからではなくて、読めない場合にどう対処するかという
コミュニケーションスキル、問題解決能力の方が大きいのでは、と思っています。

昔ながらの「ことばの教室」が、消えてなくならないことを祈るばかりです。

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通級の指導目標を検討する 4

 「自分の要求を人に伝えることができる」

赤ちゃんは、おっぱいが欲しいから泣くのではなく、
不快だから泣くのですね。
ところが、
泣く→おっぱいがもらえる→快感
という経験を積んでいくことで、
いつか泣くこと自体を意図的にするようになります。
要求の始まりですね。

これは、だっこでもおむつ交換でもできるようになります。

やがて泣くことの変わりに指さしやジェスチャーでの要求になり、
ことばになっていきます。

最近うちの2歳児は「モット シテー」ということばを覚えました。
便利な言葉ですね。何にでも使えますし、一生使えますね。

また、「ゴハン シタイ」(ごはんが食べたい)、
「アンパンマン シタイ」(アンパンマンを見たい)
など、「シタイ」をつけることで要求するようになりました。

赤ちゃんは、快か不快かを基準にして、要求を覚えていきますね。

でも、要求したもの、ことが、どれだけがんばってもかなわないことがあるし、
時間がたつとかなうこともある。
何かと交換条件でかなうこともあるし、
何かをしたら代わりにかなうこともある。

同じパターンでなければ、かなったことにならないと思っていたけど、
違うパターンでも、要求がかなっているのだとわかることもある。

これらは時系列や、周りの状況などから法則性を発見していく過程でもあり、
要求することで、いろいろな場面状況を理解したり、相互のコミュニケーションを
覚えていくんだなあと思うのでした。

通ってくるお子さんの中には、自分が何がしたいのかのとらえが難しかったり、
とらえられていたとしても、要求する方法がわからないという場合もあります。

そうした子には、要求を育てるという過程は大切なのでしょう。

ただ、それらは既に通過していて次の段階という場合もあります。

発達というものをよく理解し、個々の違いに着目して、
目標を設定したいものです。

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通級の指導目標を検討する 3

2 「○分間座って集中することができる」

おちつきのなさを主訴とする事例の場合、
こうした指導目標を見かけることは少なくありません。

集中して課題に取り組むことで通常学級でも同じように
「我慢させる」ことを目標としているわけです。

気持ちはとてもよくわかります。
ただ、この目標には「どんな内容、分量の時に」が
抜け落ちています。

そして、落ち着きのなさで多いケースは、

・学級では座っていられないが、ゲームなら何時間でも集中できる。
・教科によって集中に違いがあること。

つまり、集中できないのではなくて、集中のコントロールが難しいということ。

また、

・行動面の落ち着きのなさは、適切な環境であれば、
徐々に軽減されることが多いこと。
(頭の中の多動はなかなか改善しないかもしれませんが)

つまり、着席時間を長くすることそのものを目標とするのは、
あまり意味がないのでは、と私は考えています。

むしろ、座っていられない背景を看取ることの方が、はるかに大事かと。

・教科によって差があるなどは、授業の内容、方法がその子にフィットしていない可能性。
・できないことや失敗することへの不安、恐怖
・体幹の支持性など、着座姿勢を保てない体力、または感覚統合の問題
・睡眠、食事など、生活リズムの問題
(睡眠時の環境や、ねる前の食事、呼吸の問題、背骨と寝る姿勢などなど)
(寝るときの情報からもいろいろなことがわかります)
・家庭内不和、児童虐待などストレスが背景にある場合
・視機能、視知覚、聞こえの問題
・妨害刺激への抑制がもともと難しい。脳機能の問題


いろいろな背景を見ていく必要があるのでは。

座っていられる時間を長くする目標よりも、座っていられないときに
うまく回避する、離席を合法化する手続き、スキルの方が大事なのでは。

つまり、たとえば、「離席カード」があれば、3回まで離席していいよとか、
教室を脱走するならば、脱走先の場所だけは約束するとか。

また、短時間でもできる課題がこなせたらほめて、休憩時間を保障するというように、
成功体験を積むことも大事ですし。

落ち着かないから、座っていられるようにしよう、というのは、
現象面だけを見て、背景を見ていないのでは。
通級においては背景へのアプローチが役目だと思うのです。

何分間すわっていられるかよりも、
座って何をしたか、その子にとってそれがどんな意味を持つのか、
が大事なのだということです。

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通級の指導目標を検討する2

1 「担当者との信頼関係を形成する」

ことばの指導にあたり、通級児童と指導担当との信頼関係は
きわめて重要です。
話し言葉、発音に直接アプローチする指導には、
信頼関係があることが前提です。

ただ、この信頼関係を指導目標にするということは、
それを評価できるのでもなければなりません。

「信頼関係」自体を指導目標に据える際には、
いくつか注意が必要なのでは、と思っています。


まず、「信頼関係」どのように評価したらよいでしょうか?
評価できないことを目標にすることは難しいです。

そもそも、「信頼関係」とは、ここまでできたら達成というように、
線で区切ることはできるのでしょうか?

人と人との「信頼関係」は、
ここで達成したというゴールはないはずで、
常に深めていくものではないでしょうか?

つまり、「信頼関係」を評価するためには、たとえば、

・「指導担当に、休日の過ごし方、友達との遊びの内容について
話すことができる」
・「自分のやりたい遊びを指導担当に遠慮なく主張できる」
・「○○の悩みを指導担当に相談できる」

というように、具体的に設定することだと思うのです。
(もちろん上記の例は、話す能力はあるのに、
指導担当に話すことをためらう。他人には主張できるのに、
指導担当には遠慮して主張できない、といった状態像を前提にします)


次に、指導担当者との信頼関係を形成することは、
子どもの人生にとってどれだけの意味、必然性があるのでしょうか?

わざわざ保護者の送迎で、狭い部屋に入り、
私のようなつまらないおじさんと信頼関係を形成すること自体が、
その子の人生にとってどれだけ意味があるのかということです。

もちろん通級担当の先生との出会いによって、人生が変わった
ということもあるでしょうし、その後も長くおつきあいするということも
あり得るでしょう。

しかし、子どもが大部分の時間を過ごす相手は、
家族であり、学校の仲間、地域の仲間であるはずです。

通級担当は、その子が自分の生活圏で生きるためのお手伝いが役目であって、
通級指導においては、いつもそこのことが念頭になければなりません。
だから、苦手なことが残っていたとしても、その子の自立が見通されるならば、
通級も終了すべきです。
そうでなければ通級への依存が生じ、かえって親子を迷いの中に
閉じ込めてしまうのではないでしょうか。

話が少しずれましたが、子どもが教室の先生と仲良くなること自体は、
指導目標ではないはずです。
もしそれが目標なら、極端に言えば、
「卒業後も、時々教室へ遊びに行って談笑することができる」
などという目標と同じなのではないでしょうか。

主役は先生なのか、子どもなのか。


いずれにせよ、「信頼関係」を目標にしたいと考えた場合、
その願い自体はとても尊いと思います。

ただ、そのことによって何を生み出したいのか、
自分自身の思考を振り返ると、指導目標の具体的な姿が
見えてくるのだろう、と思うのでした。

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