「○年生の漢字のすべてを読み書きできる」
私自身を含めて、通級の指導目標に教科の補充指導を掲げる場合があります。
これには2つの意味があると考えます。
1 実際に通級で、漢字の読み書きの達成をねらった直接的な指導を行う
2 通常学級での教科学習を支援するための自立活動を通級で行い、
「結果として」漢字の読み書きが一定程度できる。
週の限られた通級時間で、1を直接ねらうことはできるでしょうか?
LDの通級では、言語障害など他の障害とは違って、
自校通級の割合が多いですし、指導時間も多いです。
つまり、従来の言語障害の通級時間枠「週1~3時間」だけで、
しかも他校通級で、教科の達成を狙うことが、果たして可能でしょうか。
きわめて難しいと言わなければなりません。
通級対象が拡大したのは結構なことですが、
実質的にどれだけのことが可能なのかという地道な検討なしに
進んでいるように思えます。
日本LD学会の発表論文でも、従来の指導時間だけでは
教科の補充指導は難しい、と書かれています。
通級のまず本筋は、「教科の補充指導」ではなくて、「自立活動」のはずです。
最近届いた全国公立学校難聴・言語障害教育研究協議会の冊子にも、
「最近は、ことばの教室からまなび教室への移行が増えている。
学力向上の世論に押されて、通級もその影響を受けている」
という趣旨の意見が載っていました。
(正確な表現は忘れましたが、そんな趣旨でした)
「ゆとり教育」という造語が流行し、「学力低下」の原因はそれだと吹聴し、
基礎基本を通級でというようになってきました。
(本当に学力が低下しているのか、というクリティカルな検討なしに、
無批判に広がってしまったことに、危険性を感じています)
学力は低下するよりは向上した方がいいのでしょう。
しかし、たとえば、「高い-低い」の対概念が獲得されていない段階で、
「高」(2年生で登場する漢字)の読み書きを教えて○をつけることに、
どれだけの意味があるのでしょうか?
まず、高い、低いの概念を育てるための遊びの関わり、
つまり自立活動が必要なのでは?
そうした自立活動ができるのは、個別指導ならではのはず。
「高い、低い」は、「大きい、小さい」とは違うし「長い、短い」とも違う。
また絶対値ではなくて、比較対象や自分の立ち位置によっても、
「高い低い」は変わる、という理解も含めて。
まずはそこでしょう。
子どもへの加重な負担になっていないか、ということもとても懸念します。
通級は、関係者の主訴をそのまま採用して指導する場ではありません。
様々な背景情報をもとに、その子にとって今一番大事な関わりは何かを検討する場です。
「学級でこの問題が解けなかったから、通級で指導してください」
などという依頼を受ける、と聞いたことがあります。
通級担当は「はい、わかりました」というのが正解でしょうか?
私なら「なぜできかったのかを一緒に考えませんか。
そして通級ではそのできなかった背景を探り、背景にアプローチをしてみたいのですが」
とお答えすると思います。
「学力低下のせいで、漢字が読めず、企業で使えない」ということばを聞きますが、
ぶっちゃけ、読めないからではなくて、読めない場合にどう対処するかという
コミュニケーションスキル、問題解決能力の方が大きいのでは、と思っています。
昔ながらの「ことばの教室」が、消えてなくならないことを祈るばかりです。
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