なにやら最近、支援者による「記述」へのこだわりがあるようですが。
読んでも「中身」がないのでした。
「日記」とどこが違うのでしょうか。
客観的な科学的記録ではなく、指導者側がどう感じたかを「記述」する事で、子どもの姿がありありと浮かんでくる、との考え方によるもののようです。
そして、その「記述」を回覧し、「読み手」の指摘によって、客観性の確保がなされるとの主張のようです。
でも、実際の指導場面を見ないと、指摘などしようもないわけです。
文字を媒介してしまうことで、情報は単純化、記号化し、子供の実態からかけ離れてしまう。
確かに、客観的な科学的合理主義を子ども臨床に当てはめることに異議を唱えるのには、一定のインパクトがあり、理解できるところもあります。
「課題ができる、できない」だけでなく、子どもがどう感じたか、支援者がどう感じたかを省みるのは、たいへん重要なことですし、見落としがちであることも認めます。
だから、支援者と子どもとの関係性に着目し、気持ちを省みる「記述」の試みがあるのでしょう。
しかし、指導の様子や感じたことを文字化、記号化すること自体が、客観化の営みそのものであるという自己矛盾をどう説明するのでしょうか。
大切なのは実際の指導場面をお互いに参観しあい、協議すること、経験の長い先生のスーパービジョンを得ること。経験の長い先生が減った今、実務の中で研修するOJTこそが、今の研修に求められることです。
「正しい発音ができるようになって、満面の笑みをうかべる子どもの姿を見て、私もうれしくなりました。」
これは実際の話ですが、「記述」とは、たとえばそういうことなのでしょう。
しかしこの子の場合、どんな子どもの状態像があって、構音の状態はどうで、どういう指導手順を踏んだのかという客観的な考察を軽視してはなりません。
精神論だけに走ることの危険性を想うのです。
母親の接し方が悪かったから、という結論になりがちです。
元々そうなりやすかったという個体差を無視するのですね。
きれいな「記述」に時間をかける暇があったら、技術を磨く、子どもの遊びにつきあう、同僚に相談するということが大切です。
そうでなければ、「記述」は単なる自慰行為でしかないのです。
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