今日は、自分の学校で自主研修会を開き、9名の方が集まりました。
通級担当以外の先生も何人か見えました。
「管理職に職員派遣依頼は書いてくれないのか」
とか、
「会場使用許可願いはないのか」
と言ったクレームを何人かの管理職の方からいただきました。
ごめんなさい、必要な書類は今後出します。
でも、そんなことは、かつてはほとんど言われたことがありません。
教員は余計な事務仕事をする時間があったら、教材の一つでも作ったり、研修内容そのものに時間があてられるようにすべきだとは思うのですが・・・。
教員の余計な仕事は縮減して、子どもと向き合う時間を、と一方ではスローガンを掲げていますが、一方では費用対効果を証明する文書の整備を求められ・・・。
それはさておき、研修内容はケースレポート検討でした。
事前に配布した記載例を参考にして、皆さん書いてくれました。
記載例にない内容については、参加者から質問が出るなど、多視点で子どもを理解するということが浸透してきているという実感を持ちました。
たとえば、
「家族構成」
その子がどのような家庭環境であるかを理解することは、子ども理解のために重要ですし、支援策を家族と一緒に考えるときにも必要な情報になります。
一つわからなかったのが、
「自己理解を進めると、自己肯定感が下がる」
という意見。
確かに、子どもの苦手なところをとりあげて、「そこが悪いのよ」という価値観のお仕着せをするならあり得るかもしれませんが・・・。
基本的には、
・神経質→細かいところによく気づく
・仲間に入ろうとしない→客観的に人を見つめられる
・おとなしい→思慮深い
・さわがしい→ムードメーカーになりえる
つまり、短所と長所は表裏の関係なわけです。
良いか悪いかという価値付けが自己理解ではないのでは?
これは、支援者側の「障害観」を直接問われるのだと思います。
「治す」
というより
「変容する」
なのでは。
エネルギーを出させなくするのではなくて、そのエネルギーを利用して、社会適応に変容させる、ということだと思うのです。
もう一つ。
恐怖に感じやすい対象を
「少しずつ慣れさせる」
とか、
「論理療法で感じ方を変える」
だとかも、ちょっとわかりませんでした。
「少しずつ慣れさせる」
確かに必要なこともありますが、
大人になっても、「それ」への恐怖を「なくす」ことが必要なことか・・・。
たとえば、運動会のピストルの音を
少しずつ慣れさせる指導が果たして必要か。
成人してから、ピストルの音を人生で何回聞くのでしょう。
まあ、将来、「ドンパチやる職業」に就くなら別ですが・・・。
私は小学生の頃、花火が怖くて仕方ありませんでした。
「ほら、怖くない、怖くない。見てご覧。きれいでしょ」
余計なお世話でした。
怖い物は怖い。見たらもっと怖いのです。
期限を区切って、子どもの内面を変えるという風に考えない方がいいような気がしています。
怖いけど、行動がこう変わったというならわかります。
変わるとしても、少しずつ、子どものペースで変わっていく、慣れていくのであって、
大人の側が、慣れろ、慣れろとやっても、慣れないものは、慣れない、のでは?
想像力が弱い子が、新しい課題に尻込みするなど、説明と見通しを持たせることは有効な指導ですが、本能的に怖い、という内容のものについては・・・。
「論理療法」
も、ある程度知的な高さが必要でしょうし、いくら理屈を並べられても、本能的に怖い物は怖い、のでは。
でも、子ども達のためにいろいろ試行錯誤されている先生方の姿が見えてきて、本当は感動していました。
ケース検討終了後、個人的な相談、というより構音検査のやり方についてのミニ講義をしました。
初めは一人の先生向けだったのですが、他にも参加したいという方がいらして、結局半数の方が最後まで聞いてくださいました。
本当は、1年、2年かけて研修することをわずか30分にまとめて、となりましたが、先生方の研修意欲には頭が下がる思いでした。
参加者の皆さんはどんな思いだったか、フィードバックする仕組みが必要に思いました。
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