ハンドルネーム ya
某公立学校通級指導教室担当教員
言語聴覚士
特別支援教育士(S.E.N.S)
性別 男
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こうした質問は、周りの子から、本人から、そして先生方から寄せられることがあります。
特に先生方から「周りの子に、どうやって説明したらいいですか?」
と尋ねられます。
そうした場合、
「今まではどう説明してきましたか?」
「今までは、どのようにその子に対応してきましたか?」
とお尋ねします。
「聞かれたことはないけれど、今後聞かれた場合に」
という回答も多いです。
そして
「医師の診断を受けていないのに、説明をどうやったらいいですか」
と。
幼稚園の先生は、この点、説明がとてもうまいです。
「○○くんは、まだわからないから、△△をしているのですよ」
そして、その子への対応は、他児とは違っていても、違和感は特にありません。
「まだわらかないから」には、「わざとではない」というニュアンスが入っていて素敵です。
小学校の対応の上手な先生は、
「(みんなは)、○○ページをノートに写しなさい。○○くんは、まず教科書を出してみよう。はい、よく出せたね」
と、みんなとは違う、スモールステップの個別の教育目標をただちに設定して、達成したらほめるということをされていました。
それは他の子にとっても、教科書を開くことは望ましい行動なのだ、ということを間接的に強化していることにもなります。
毎日の接し方が「説明」の姿であって、「この子はADHDだから」ということばの説明は、かえっておかしな方向に行ってしまうのでは、と思います。
「ことばが上手じゃないから、ことばの教室に通っています」
というのは、ネガティブな説明で、望ましくない説明でしょう。
日常会話の中で、発音の誤りがあっても、さりげなく正音を返してあげる関わりを先生が見せてあげることが、その子への対応へのモデル提示になるわけです。
「だんだん上手に言えるように、練習しているんだよ。発音を間違えていても、聞き取ってあげましょう」
非言語的な説明、モデルとしての説明がまずあることが重要だなあと。
医学的な診断は、説明を補強することには、必ずしもつながらないのだと。
普段から、「みんな違ってみんないい」ができていないと、いきなりタブレットを与えることで、他児がうらやましがって、人間関係が悪化するということもあるようです。
「土台」ができていなくて、いきなり手段に行くことで、本人にとってかえって負担になるのであれば、「非合理的配慮」なのです。
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