ハンドルネーム ya
某公立学校通級指導教室担当教員
言語聴覚士
特別支援教育士(S.E.N.S)
性別 男
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今日は休日。
久しぶりに身体のメンテナンスを受けてきました。
数年ぶりに訪れたその場所では、先生が私の顔も見るなり、
「初めての人じゃないですよね」と。
私を覚えていてくれたのでした。
しかし、寝ている私の頭の方に座った先生は、ぼそっと一言。
「白髪増えましたね!」
がーん。
くやしいけどその通り。
年を取ったなあ。
「先生も、○○○ですね」、などとは言わなかったですが。(^.^;
久しぶりに会ったといえば、もうかなり前に通っていたお子さんの
お母さんに、最近何人も、立て続けに、偶然街で会いました。
偶然がよく重なるので、
私は何か振り返ることを運命は求めているのかな、
とさえ感じました。
「お久しぶりですね」
「お元気ですか」
「お子さんどうですか」
内容は書けませんが、それぞれの展開を見せているようです。
でも思ったことは、
当時のお子さんの姿は、当時の周辺の状況との関係性を
前提としているのだなあと。
時間がたち、子ども本人の成長による変化も当然ありますが、
生活の枠組み、前提自体が変わり、
関係の中で子どもも変わる部分がある。
周囲の本人への評価の観点も変わっていくでしょう。
当時できなかったことは、今となってはそれほどの
問題ではない、ということも多い。
逆もありますが、前者の方が多いかも。
そこで改めて思ったことをいくつか。
1 指導者は、その時だけを見ていてはいけない。
10年後、20年後の姿を思いながら。
2 できないことをつっつくよりも、できることを伸ばした方が
予後は、できないことをできることでカバーできるんだな。
3 そんなに焦らないで、もっとゆっくり考えてもいい。
最近、特別支援教育について、
集団への帰属に重きをおく文脈が
強まってきている感じがするのは、私だけでしょうか。
「もっとがんばれ、もっとがんばれ」
「さもないと、世の中についていけないよ」、と。
一面それは事実だし、世の中の流れを無視して教育はなり立たない。
ただ私は思うのです。
特別支援教育にしろ何にしろ、
すばらしい技術や理念、言い回しがあったとしても、
それを
「本人がどう感じるのか」
の視点が一番大事なのではないか、と。
訓練のための訓練。
それもいいのかもしれないけど、
その子のQOL(生活の質)を高めるために教育はある、
平たく言うと、
「本人がそれによって楽しいと感じるのかどうか」
なのではないかと。
「楽しい」、だけでなく
「感動した」とか、
「うれしい」とか、
「役に立った」とか。
確かに、本人がいやがっても、やらせなければならないことはあります。
ただ、将来身につけさせるべきかどうかという視点は、
単にお勉強の成績とか行動だけではなくて、
「楽しい日々の積み重ねによる、心の将来への投資」
という視点も大事なのでしょう。
将来の幸せが人生の一部なら、
「今」の幸せも人生の一部なのですから。
LDの心理的疑似体験プログラム。
確かに広く普及しましたが、
自戒を込めて言うなら、
「のど元すぎれば」なんとやら。
定期的に体験し直すのもいいかもしれないですね。
本人がどれだけ苦しんでいるのかを、「内側から」理解する。
この原点にもう一度立ち返る必要があるのでは。
最近、そんなことを感じるのです。