特別支援教育が始まり、その一年前から先立って通級対象が拡大しました。
一 言語障害者
二 自閉症者
三 情緒障害者
四 弱視者
五 難聴者
六 学習障害者
七 注意欠陥多動性障害者
八 その他障害のある者で、この条の規定により特別の教育課程による教育を行うことが適当なもの
などなど。
ただし、基本的にはひとつの障害種に対応するが、教員が有する専門性や指導方法が類似しているなどすれば、ほかの障害も担当していいですよ、というようになっています。
このことについて、「多様な子どもを受け入れてきた実態が認められた」と歓迎する声がある一方、「多様な子を受け入れたために、本来構音指導で通いたい子どもが通う時間帯がなくなってしまう」という声もあります。
どちらにも言い分があり、理解できます。
ただ、ここで必要な視点があります。
すなわち、
1 構音に課題のある子の多くは、読み書きや行動などにも、重複して課題を抱えている場合が少なくない。(純粋に発音だけの問題、という子は実は少ない)
2 多動で指導を受け入れられないと判断された子でも、加齢によって落ち着き、ある程度練習に乗れるようになる場合も少なくないこと。
3 実際構音の指導をする際にも、「お口だけでなく、身体全体、全体発達をみることが必要」と教科書的には述べられている。
障害名で細かく分けて、「あなたは言語障害」「あなたはLD」などと選別するようなことを、ことばの教室が「本来」やるべきことなのか? 疑問があります。
もちろん、「通常学級での学習におおむね参加でき」という条件がなかなか満たされず、特別支援学級で手厚くみてあげた方が、限られた時間の通級よりも望ましい場合があることはわかります。
ただ、通常学級におおむね参加できるが、多様な困難のある子どもたちの存在が明らかになってきた現在、さらに細分化することにどんな意味があるのでしょうか?
構音指導はまさに認知心理学的アプローチであり、応用行動分析的アプローチでもあります。それはほかの困難がある子にも有効、否、そうした子は、診断名のない時代から通い、認知心理学的、応用行動分析的な通級指導を受けてきたわけです。(それを指導者が「応用行動分析学」、「認知心理学」と認識していたかどうかは別として。しかし過去からの研究の蓄積は、それらの学問が背景理論として働いていた、と今になれば整理できるのでは)
ことばの教室と、LD等の発達障害の通級指導教室を別に作ればいいのに、との話も聞きます。別に作れたとして、どちらに通うのが良い、ときれいに判断できる子は何人いるのでしょうか?
同じ子どもであっても、加齢とともに、教育条件とともに、ニーズは刻々変遷していくのではないでしょうか。
どこまでが「言語障害」で、どこからが「発達障害」なのでしょうか?
言語障害も、発達障害なわけですが。
文部科学省が定義する「言語障害」すなわちまとめると、
「知的な遅れはないが、言語発達だけが遅れている」
という定義に当てはまる子は何人いるのか?
WISCで言語性IQは落ちているが、全IQでは遅れがない?
言語性IQが落ちているなら、全IQも下がるのでは?
仮に言語性<動作性 として、では自閉症スペクトラムと、言語障害の境界線は?
そもそも「言語」とは何か?「言語」、「非言語」と簡単にわけられるのか?
などなど。
障害カテゴリーの議論をするほど、子どもの現実から離れていくように思うのです。
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