某団体の研究協議を読みました。
「通級で文字の読み書きができるようになっても、通常学級から離れることで失うものが多い」
(要旨)
→まあ、確かにそうしたデメリットも含めて検討しなければならない、という点は賛成です。
できなくたっていいじゃないか、それよりもみんなと一緒にすごすことの方が、という論旨も。
ただ、できないまま過ごすことで失敗体験を重ね、自信喪失につながるケースも多いのです。
「自尊心と自己肯定感を取り違えている、自己肯定感は、できなくても自分を肯定できること」
(要旨)
→確かにその通りですね。ただ、通級は単に「できなかったことをできるようにする」だけではないのです。
「わかりやすさばかり求めるのはおかしい。わかりにくいからこそ、こどもはわくわくする」(要旨)
→確かにその通りですが、「わくわく」ではなく「そわそわ」、「びくびく」、「さびしい」と感じている子がいることも事実です。
みんなと一緒に、という主旨は賛成ですし、できるだけそうしなければならないし、そのためのスタッフや教材の充実も必要でしょう。
しかし、子どもによっては、より少人数から始めた方が良い場合、内容、時期もあります。
小学校一年生で、刺激への反応が強すぎたり、他害が多くて失敗体験を繰り返す子どもに、まず一対一でコミュニケーションの楽しさ、安心感などを育てることが必要な場合もあります。子どもによってその時期は様々です。それぞれの時期に合わせた対応をすることが一番大事なのでは。
個別指導と全体指導のメリットがそれぞれ生かされる組み合わせ、そしてそれは子どもを中心に考える、ということなのでしょう。
「特別支援教育とは、どこまでが特別でなくて、どこからが特別だというのでしょうか」(要旨)
→これは、「特別支援教育」の誤解の典型例と読ませていただきました。
「特別支援教育」とは、一人一人の違いに合わせた教育という理念であって、障害児と健常児を区別するという意味ではありません。「しょうがい児教育」というネーミングの方が、よっぽど差別的ではないでしょうか。
通級や、特別支援学級、特別支援学校に在籍の子どもが急増していると騒がれますが、先進国で比較した場合、日本は特別支援教育を受けている割合はまだまだ低いです。まあ、日本が教育予算で先進国かどうかという議論はあるとしても。
障害の有無でなく、一人一人の違いに合わせるということが、インクルージョンの真意のはずです。
ずっとみんなと一緒にいることが、過剰なストレスになる子だっています。
私、その子の気持ちがすごくよくわかります。
特別支援教育は、分離教育でも、統合教育でもない、弁証法的止揚だと、私は教わりましたし、そう思いますし、それを目指さなければならないと思っています。
だから、「障害があるから通級」ではないし、明確な線を引いて区別するものでもないし、個々の実情、環境、本人の気持ちとのかけ算で判断しなければならないわけです。
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