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某公立学校ことばの教室教員。公認心理師、言語聴覚士、特別支援教育士。 『クイズで学ぶことばの教室基本の「キ」』の著者。  SINCE 2000.1.1 
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北海道言語障害児教育研究大会 留萌大会




風車の回る日本海側のまち、留萌市に行きました。

○前日集会


研究会への参加態様が厳しくなっている。
勉強しに行くのに、「休暇」をとらされるようになった。
また、教室職員全員で参加できたのが、
「なぜ、全員行く必要があるのか。一人行って、
帰ってきてからみんなに報告すればいいのではないか」
と言われるようになった。

→(感想)
通級担当は、普通教員免許だけでやれてしまうという
今の免許制度の欠陥が最大の問題であり、
現職についてから、初めて学ぶことが多いのが現状。
したがって、通級担当は、現職での研修、
しかも、全国レベルの質の高い研修を受けられなければならない。

休暇を取らせて、一人だけ行けば、というのは、
普通学級の先生方と同じ対応にするため、ということのようだが、
通級担当の養成、免許制度の欠陥という歴史的大前提をもとに、
管理職は判断して欲しい。


子ども理解について

→(感想)
私が発言した、指導方法の前に、子ども理解を、
というフレーズについて、参加者から賛同の反応を頂いた。

子ども理解、障害の理解をとばして、
ハウツーが先に走ると、その指導内容は、
支離滅裂なものとなる。

子どもを理解することの中にのみ、指導方法は存在する、
ということを再確認できた。
実はこのことは、翌日の臨床研修会、記念講演会でも、
特に強調されていた。

それは反対から言えば、
現在の教育、とりわけ、特別支援教育は、
「○○障害だから、この教材、この指導法」だとか、
「○○できる、できない」という方向に行き過ぎている、
と心ある多くの方が感じ始めていることの現れだと思う。

そして親も、子どもが小さいときは、「○○できる、できない」が
とても心配になってしまう。
しかし、子どもが成人するなど、先輩の親からは
「もっと長い目で見る」ことの大切さをお話しして頂ける。
親の会の大切さを改めて認識する。


3 終了後の交流会
某居酒屋でのお刺身、押し寿司など、
うわさ通り、とてもおいしく、安く頂けたた。


○臨床研修会
  中京大学の鯨岡 峻先生の講義。
  演題 「エピソード記述の理解と実践」


 「客観的な記録でなければならない」という思い込みから、
関わった支援者の気持ちを全て排除してしまってはいけない。
 
 客観的な記述は大切だが、自分自身がどう感じたかを
載せることで、子どもとの関係性がありありと想像できる。


→(感想)
全くその通りだと思う。
科学的視点では主観を排除すべきだが、
教育は人と人との関わりという原点まで
排除してしまってはならない。

ただ、やはり、客観的な正確さ、があってこそ、
主観的な心の動きの記述が許されるのであって、
正確さを考えなくて良い、ということではない、
という点を確認できたのは納得だった。

「(主観的な)感じ方が誤っていれば修正すればよい」
とおっしゃっていたが、自分の感じ方を修正できる柔軟性とメタ認知が、
支援者自身に必要となってくるだろう。
常に他のスタッフに尋ねながら進める必要がある。



 能力の前に、心が大切。人との関係ができていない段階で、
能力を育てることばかり強調されるのが、今の特別支援教育。
結果主義、成果主義。費用対効果の効率主義。

 →(感想)
まったくその通りだと思った。
特に最近は、エビデンスベーストとか、説明責任ということもあって、
その指導にどんな根拠があって、どんな数値目標、結果があるのか、
ということが強調されすぎている感じがする。

もちろん、無根拠な指導であってはならない。
しかし、「○○ができる」という点にこだわりすぎて、
もっと土台の部分を顧みない指導は、
予後から見て、危険性が高い。
私自身の臨床への反省も含めて。

漢字が書ける、ということの前に、
抱きしめられたい、という心の叫びは、支援者に届いているか?

某メーリングリストで、

EB=「エビデンスベースト」ではなく、
EB=「エクスペリエンスベースト」

ということばを最近拝見したが、すばらしい考え方だと思う。

毎回出会う子どもの息を感じ取って、
その息に合わせて関わることが、まず第一に大切にされなければならない、
という教育の原点に、まず帰ること。


○記念講演「子どもの生活を豊かにするコミュニケーション」
 北翔大学教授 日本臨床心理士会会長 村瀬 嘉代子先生


外国人の様々な表情の顔の絵を見せて、「うれしい時、人は笑いますね」
という指導。ところが子どもは「そうとは限らない。悲しくても笑うことはある」
と説明した。

絵を見せて、笑った、泣いたという指導よりも、
そうした感情の動く体験、人との関わりを提供することの方がはるかに大事。

→(感想)
まったくその通りと思う。
人の表情が読み取れないから、絵を見せて、という単純な図式での
指導がいかに、形式的、心不在であるかということ。
確かにそうした手法が有効な子もいるだろうが、
今回の事例の子は、複雑な両面性のある感情を指摘できることから、
指導内容はミスマッチである。

似た様な事例の子の話を聞いたことがある。
「こんな時、どんな気持ちになるか、文字に書いてみよう」という
プリント課題。
それよりも、実際に「そういう気持ち」になる、なった場面を
用いた方がはるかにいいのでは、と思うのである。

地下鉄が近くにないのに、地下鉄の乗り方のSSTだとか、
就職まではるかに先の、低学年の子どもに、
「お客様に断られたときの対応」だとか、
「形式」がはびこりすぎていると感じている。



場面を「一人称的(本人)に」「二人称的(支援者)に」
「三人称的(周り)」の3つの視点を同時にとらえながらが大切。

→(感想)
支援の場というだけでなく、日常の人との関わりの中で一番大切で、
もしかすると一番難しいのかもしれない。


***
今回は少しラジカルな内容になりましたが、
関係論と正反対の位置?にある行動分析的な考え方も
私は必要と感じているし、両方の視座が必要だと思っています。


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