「障害」を「障碍」に書き換えるべきだという主張がありましたが・・・。
「害」の文字を使用していることに対して、「人権侵害」だと主張する向きがある(あった)ようですが。
平安時代頃に『障碍』と書いて「しょうげ」と書き、「悪魔が邪魔をする」という意味が辞書に載っているそうです。
それでも使うのですか?
「障害」はだめだから「しょうがい」にしましょうだとか。
もう、意味がわかりませんね。
生涯?
それなのに、「通常学級」ということばは使わず、「普通学級」と言っている。
特別支援学校内だって、「普通学級」と言っているのですがね。
「普通学級」の反対は「特別支援学級」という発想自体が、実は差別的ではないのかな?
インクルーシブの理念は、「障害のある人と、ない人とが共同で」ではない。
始めに、障害のある人、ない人、と人を区分けする時点で、差別は始まっている。
そこに気づけないのかなあと。
インクルーシブ教育と、インテグレーション教育は全く別物です。
全ての子を「普通学級」に放り出すことが、その子にとって理想的な教育なのでしょうか?
それぞれの子が、能力を最大限に発揮できる教育環境を用意することこそ、人権擁護なのでは?
「カウンセリング」は、兵士の心を癒すために始まったのだから、軍国主義だ。
だから、学校に持ち込むのは反対だ・・・。
「カウンセリング」を受けた人は、軍国主義者になるとでも言うのでしょうか。
ことばとは少し違いますが、ある方によると、「背広」は元は軍服。
ネクタイも、兵役に出る男の妻が、「形見」として下着をちぎって首に巻かせたのが始まりらしい。
腕時計も、発祥は第一次世界大戦時。
銃器を持ちながら時間を見るのに、懐中時計をいちいち出すよりも、腕時計にした方が見やすい。
だから、時計の文字盤は、腕の内側から見えるようにするのが、本当らしい。
こう挙げていくと、ことばも、物も、歴史の洗礼を受けているわけです。
ことば狩りによって、特別支援教育に必要な本質がそらされてはいけないなあと。
「平成」は使わず、西暦を使いましょうだとか。
男女にかかわらず「さん」付けで呼びましょうというのも、私には同列に見えます。
本人と先生との関係性、実態の中で、敬称は選択されるものではないかなあと。
一律にこうすべきだ、という運動論の方がおかしい。
「奥さん」もだめで、「妻さん」にしましょうだとか。
語源をたどれば、言わんとすることはわかりますが、よろしくない意味の含まないことばなど、存在するのでしょうか?
ただ、今回のDSM-5で、「障害」を「症」に換えたのは、学術的必然性はあるのだろうと思います。根拠に一定の説得性があることから、世の中への影響も一定程度あるだろうと。
ただ、「知的障害」は「障害」のままなのはなぜだろうなど、疑問もないわけではないですが。
まあ、いろいろな考え方があってもいいのでしょうが、自分の主義主張が、どんな根拠に基づいているのか、自分で調べて、自分の頭で考えるということが大事だろうと。
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