学生時代、自分からは電話をかけられないけど、他人がかけてきたら出られる、という方とお友達でした。だから、どんどんかけてほしい、と言われていました。今思うと、症状は軽くはない方でした。言われたとおりに、私はできるだけこちらから連絡をとっていました。ただ、先方からあまりにも連絡がないと、実は自分は嫌われているのではないかと思うこともありました。だから、かかわりが遠慮がちになることも。それは誤解だったのですが、きこえに困難があると、聞こえないこと以上に人間関係、誤解との対峙が必要なのと同様、吃音においても、話せないこと以上の苦しみがあるわけです。
だから、支援者の「障害を受けいれよ」は、空虚な言葉でしかありません。受け入れるかどうかは、本人が決めること。受け入れられる経験の積み上げ、対応方法をいくつも持って、将来の見通しが持てるように手助けすること。お説教的に、受け入れよ、と他人がいうことでない。
もちろん、私はその方の吃音のことをからかったり、指摘したりしたことはなく、本人の要望を素直に受け止め、「普通に」関わっていたつもりでしたが、当時、私は吃音の知識もなく、本人の辛い気持ちを全然わかっていなかったなあと振り返ります。大学の教員免許カリキュラムにも、吃音はなかったし、そうした方にお会いしたのも初めてのことでした。
今はどうされているのだろう、機会があれば、またお会いして、当時の理解不足をお詫びしたいと。
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