「ことば」は、様々な経験の「束」です。
たとえば、乳児がお父さんとお風呂に入っていました。
「そろそろ上がろうか」とお父さんが言いました。
まもなくお父さんは、自分を抱えてお風呂からあがりました。
毎日こうしたことの繰り返しにより、
「そろそろ」という音韻を聞いただけで、お風呂のお湯から
出るんだな、ということを学習し、お湯から出ようとする仕草を
するようになります。
学習するまでは、「そろそろ」の音韻と、
お湯から出るという物事とが、結びついていることがわかりません。
シャワーの音。
頭や体を洗ってくれるときの触覚刺激。
お湯を足すときの蛇口の音。
お父さんのため息。
風呂場の向こうで、お母さんが茶碗を洗っている音。
家のそばを車が通りかかった音。
さまざまな刺激の海を泳いでいる。
そんな中で、たった2つの要素が結びついていることを
発見するのは、まさに「大発見」です。
ところが、この刺激の海の中から、
法則性を発見するのが難しい子がいます。
よってことばの獲得も遅れるか、独特の辞書的な学習の仕方で
ことばを覚えていきます。
「ことばは日常生活の中で獲得する。週のわずかな指導時間で獲得するものではない」
という主張があります。
多くの場合はそうでしょう。
しかし、そうでない場合もあります。
辞書的に、経験を一つ一つ整理してあげながら、
まさに勉強するという形で、ことばを覚えていく場合もあります。
だから、指導の手立ては「子どもによって違う」のです。
いつも言いますが、主義主張は横に置いて、
子ども自身に書いてある答えを読みましょうということです。
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