ハンドルネーム ya
某公立学校通級指導教室担当教員
言語聴覚士
特別支援教育士(S.E.N.S)
性別 男
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特別支援教育がスタートして5年・・・。
まだここかあと・・・。
でもそこからがスタートならば、それに合わせるのが支援者の務めですね。
今日は女性管理職の総会時講演ということでお邪魔してきましたが、皆さん、自閉症の意味はご存知だったようでほっとしました。
この頃あの子は自閉症になった、ということはありません。
自閉症は先天性の障害です。
学校の先生は、幼児期の情報を仕入れてください。その中に支援のヒントがたくさんあります。
という話を皆さん深く頷いてきいてくださいました。
特別支援教育と、どの子も同じ対応をしなければ、の二律背反をどうしたらいいのか、という主旨のご質問をいくつもいただきました。
両者は相反するものではないということを具体例を挙げてお答えしましたが・・・。
言うは易しですね。
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NHKの再放送を見ました。
タブレットが教科書を音読してくれるし(しかも読んでいる場所も提示してくれる)、書字は活字になるし、文字の拡大表示もできるし、読めない漢字は手書き検索で出てくるし、板書を写し書きできなければ、タブレットのカメラで黒板を撮影して復習できるし・・・。
学習障害の診断には、発達検査が必須ですが、タブレットの場合、どのように活用したか、学級全員分の操作記録がリアルタイムで大学に送信、個々の活用の特徴を把握できる。
つまり、文字の拡大機能を多様した子の場合、文字の形態把握に困難がある可能性があるとか、音読機能を多様した子は、文字の読み(デコーディング)に難があるかもしれない、などその子の支援の方向性がわかってくる。
発達検査をしなくても、タブレットの使用の仕方で特性が把握でき、支援に結びつく、というある意味、RTI的な要素を感じました。
そして、もちろんタブレットの効用については私も認めますが、自宅ではタブレットのテレビ電話機能を使って、大学のスタッフと相談ができるなど、関わるスタッフの充実ということも、子どもの学習意欲に関係しているのではないか、と感じました。
プロジェクトでやっている事業なので、充実した予算、スタッフ、機材の配置ができるわけで、お金と手間をかければ、それは学習意欲は向上するでしょう。
問題は、これだけのお金と手間を全ての学校にかけられるかというと、そうではない、という点。
ただタブレットというキカイを学校に導入すればそれでうまくいく、というものでもないでしょう。
そして、「その子だけタブレット使用」を拒否する先生を責めるべきではないということ。
以前にも書きましたが、学校だけでなく地域全体が、特別支援教育の理念を理解していないと、どんなによいことであっても、副作用を生じる可能性があるということ。
その意味では、特別支援学級や通級による指導でまず導入してみるというのは、理解されやすいかもしれないですね。
また、子どもの人数分の機械が導入できるなら、使うかどうかは子どもが個々に選択するというやり方も入りやすいでしょう。
番組でも言っていましたが、学力とか知能とは何かということを根本から問い直し、議論する段階なのだと思いました。
そのうち、知能検査に、IT機器の活用能力を測る下位検査が登場するかもしれないですね。
知能検査自体の意義も、RTIとともに、さらに問い直されていくかもしれません。
ただ、タブレットの操作情報の統計だけを見て判断するのは危険性も感じました。
子どもが自分の苦手なところを自分で把握して、それに合わせた操作ができているとは限らないことと、やはり直の目で行動観察することが一番大事だということ。
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今日は、「特別支援教育の動向」というお題を頂いていたので、通級の制度面、法律面、DSMや国の最新の調査情報等と絡めてお話させて頂きました。
制度面を学ぶということは、単に法令を学ぶというだけでなく、子どもやその周辺をどう理解したらいいのかということにもつながります。
そうした観点からの質問もたくさん出て有意義でした。
また、制度面の知識がないと、教室も運営できませんし、不理解なアプローチに対する反駁もできません。
各教室の代表者が集まる場でお話できたので、教室運営に、子ども理解に役立ったのではないかと。
理事会のメンバーだけで聞くのはもったいないとの感想も頂きました。
新しい先生への研修支援は、こうした内容も含め、系統的な研修プログラムを策定して、進めなければなりません。
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昨日、NHKクローズアップ現代では、オノマトペを取り上げました。
陸上競技の指導にも、「ザクザク走れ(だったかな)」というように取り入れたことで、効果が上がったという事例が紹介されました。
「ザクザク」を論理的に説明すると、脚の角度を何度にして、というように、長い文になってしまうが、オノマトペを使うことで、一言で、かつ直感的に説明できるとのこと。しかもそのオノマトペは、脚の動かし方などの科学的な分析がまず頭の中にあって、それをオノマトペに翻訳しているので、より効果的なのだとのこと。
考えてみればことばの教室でも、オノマトペを使った指導をしています。
舌を脱力させる指導では、「ホットケーキのようなふわっとした舌」と表現します。
語頭で詰まる吃音のある子への、流ちょう性促進技法では、「出だしをそっと」などと、言ったりします。(こうした直接的指導は、本人と信頼関係ができていて、直接指導を本人も望んでいる場合などに限られますが)
「力を抜いて」だと、どう抜いていいのかわからない子も多いので、直感に訴えるオノマトペは使えます。余計に混乱する子もいるので、ケースバイケースですが。
もっと使える場面はないか、私もオノマトペの語彙?を増やし、指導の効果を高められるのではと、ワクワクしてきました。
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それだけで、手先の巧緻運動にもなるし、それで遊べば、コミュニケーションスキルの育成にもなります。持ち帰れば通級の報告にもなります。
というか、作って交流するという要素は、広く社会生活ともつながりますね。
料理して食べるとか、文書を作って提案するとか。
幼稚園教育でも、保育でも。実に総合的だなあと。
それが全てではないですが。
数値化しにくい目標というのがあります。
笑顔が何回増えたとか、数値化しようと思えばできるけど、数値は数値にすぎない、という視点をはずしてはいけない。
今日はペットボトルがコロコロ回って走るおもちゃを作り、ルール作りから、ふり返りまでしました。
すぐできます。
元ネタはこちら。
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1 複数の音を一度に指導(応用的に例外あり)
2 舌のトレーニングしすぎ、or 弁別しすぎ
3「構音発達遅滞」で構音指導重視しすぎ
4「ウ段」の指導で、口唇をとがらせすぎ
5「イ段」の指導で、口角を引きすぎ
6 単語の練習重視しすぎ
7 ステップが荒い
8 自覚させるのが早すぎ
9 未定着なのに構音の宿題を課す
10 指導する音の順番
11 音読が非流ちょう性の子に文字を用いた音読練習
12 舌だしをせず側音化構音の指導
13 発語器官重視しすぎ or 軽視しすぎ
14 鑑別があまい。(歪み? 置き換え?)
15 全ての音を評価していない
だめだしのようになりましたが、これらは研修を踏まえることで回避できるはずの「指導の誤り」です。
構音の指導は学術的に完成しているものです。
新しい、オリジナルな考え方も結構でしょう。
しかし、新しいオリジナルな考え方を導入するのであれば、従来の研究をしっかりと学習し、説得力のある根拠を持ったものでなければなりません。
奇をてらった、指導者自身が自己顕示欲を満足させるためのものならば、子どもたちにとっての不幸でしかありません。
従来の研究は、「先輩方の失敗から学んだ知恵の蓄積」とも言えます。
子どもたちは限られた時間、期間に通うのですから、指導者には、過去の同じ誤りを繰り返さない責任があるのです。
いろいろと質問してくださる先生がたくさんいらっしゃいます。
自らの考え方に固執せず、学ぼうとする先生は短期間でとても伸びている、と感じています。
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「文字の学習はあとでいいなんて大間違いだ。文字がわからなければ、学習についていけない。学校は文字による学習がほとんどなのだから」
という方がいます。
確かにその通りかもしれません。
しかし、たとえば3歳児に、ひらがなを一生懸命教えるのは妥当なのでしょうか?
英才教育をやるならともかく、音韻分析機能が、4歳レベルに達していない子どもに、文字を読ませる指導、発音の指導を一生懸命やって、はたして成果があがるのでしょうか?
子どもは成功体験や、学ぶ喜びを積みあげられるのでしょうか?
「○年生なんだから、文字がわからないと困る。今まで何をしてきたのか」
なんて言われますが、そもそも特別支援教育は、その子の育ちに合わせるためにあるのでしょう。
文字が読めないなら、絵で見せればいい。経験を積めばいい。心理検査で明らかになった得意な入り方を取り入れた指導を考えればいい。
文字の学習の前に、音韻表象、言語概念、視知覚というレディネスは育っているのでしょうか?
そうした個別の支援ができるのが、特別支援学級であり、通級指導教室であり、自立活動なわけです。
そうした特別の場が、子どもの実態を無視しして、「学年相応」の勉強の場となるならば、本来の目的から逸脱していると言わなければなりません。
一人一人、育ちのペースは違います。その違いに合わせるのが特別支援教育のはずです。
子どもの実態を無視して、みんなに合わせる、みんなに追いつくように強いることが、子どもの学校生活を豊かにするのでしょうか?
何年生だから、ここまでできるようにさせなければいけない、という発想自体が、「悪意のない差別」なのかなと。
そうではなくて、「その子にとっての一歩だけ先」を提供するのが特別支援教育でしょう。
今回の講座では、2本のケースレポートの検討を行いましたが、それぞれの力はだいたい何歳レベルなのかという見立てをするための資料を提供させていただきました。
それは音韻分析能力であり、視知覚、視機能であり、言語概念の発達などについてでした。
言語発達は、「音韻論」、「意味論」、「統語論」、「語用論」の4つの視点で見ること。その4つの視点の具体例を示させて頂きました。
結果、詳細な説明は1時間半ではとてもたりず、「音韻論」だけで終わってしまいました。
子ども言語発達の理解を取り上げるだけでも、何時間も必要です。
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通級担当経験が36年という超大物の先生をお呼びすることができました。
私たちことばの教室担当の強みは、こうした横のつながりがあることなのです。
そして午前中は講義、午後から演習とケース会議、という組み合わせは、黄金の比率です。
感想アンケートをみてもそう思いました。
「知識を授けられる場」と、「話し合う場」をバランスよく配合することが、研修会を企画する側にとっての責任なのです。
さて、講師の先生からは、言語障害教育の概要についての講演をしていただきました。
事前の打ち合わせは全くなく、先生のお考えにお任せしていたのですが、新しい先生へ伝えなければならないことは、普遍的に同じなのでしょう。ズバリの内容をお話してくださったように思いました。
以下、私のメモです。
***
・指導プログラムを子どもに降ろすのではなく、子どもに合ったプログラムを組み手立てるのが言語障害教育。そのままでなくアレンジすること。
・サイエンスを学ぶのは、子どもを「治す」ためではなく、「指導の間違い」をしないため。
・「指導計画」を見直すことは多いが、「子ども理解」まで掘り下げて見直すことが大切
・「問題の仮説」ではなく、「子ども理解の仮説」
・「受容、共感」は通過点であって、指導目標ではない。方針である。
***
お話の内容は、教材紹介などの具体的なお話は一切なく、本当に概論でした。
「明日の指導を教えて欲しい」というニーズに対して、妥協しやすい私は、ついつい教材紹介に手をつけてしまいます。
しかしそれでは、子どもの実態を見ずに、紹介されたとおりに教材を使ってしまうことにつながります。
子どもをどう見たらいいのか、という力は育たない。
だから、うまくいかない。
うまくいかないから、長く担当する気持ちになれないわけです。
また、指導計画を見直すだけでは、本当に子どもにフィットした指導は作れません。
子ども理解にまで落とし込んで見直すことが大切です。
その指導計画自体が、子どもに合っているのか、子どもはどんな力をどのように持っているのか、周囲の環境との関係性は、生まれてから今までにどのようなおいたちを経てきたのか、の理解がなければ、「計画」は上滑りしてしまいます。
そのためには、子どもをどのような視点で見たらいいのかという専門的知識、そして情報収集がなければなりません。
「指導の間違い」が起こるのは、子どもをよく見ていないことと、専門的知識が不足しているからなのです。
個別の指導計画を持ち寄る研修会をやっている団体がありますが、子ども理解をとばしているなら、研修としての意味に疑問を感じます。
子どもの詳細がわからずして、どうして、「この目標、手立ては良い、悪い」の議論ができるのでしょうか。
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「言語発達遅滞の理解と指導」という題で、公的講座でのお話の準備中です。
1時間30分のうち、1時間を説明にあて、残り30分を質疑応答に、と構想中です。
言語発達遅滞をどのように評価するか、という話だけでも、いくつもの知能モデルや、生育歴などの子どもの発達の見方についての知識が必要なわけですから、1時間と言っても、本当にダイジェストなお話になります。
新しい先生向けの参考文献では、国立特別支援教育総合研究所発行の『言語障害教育における指導の内容・方法・評価に関する研究』(H22)が筆頭でしょう。
その他、手堅いところでは『言語聴覚療法シリーズ 言語発達障害1,2,3』(建帛社)あたりでしょうか。
『特別支援教育の理論と実践』金剛出版
も、「聞く」「話す」のつまづきや、発達についてよくまとめられています。
いずれにせよ、言語発達遅滞を論じる上で触れなくてはならないのは、今報道もされている「アスペルガー障害」「自閉症スペクトラム障害」でしょう。この説明だけでも、新しく担当した先生にわかりやすくするには、最低、30分~1時間は欲しいところですが、割愛して触れていく予定です。
ところで、「アスペルガー障害」と診断された多くの方が、新しい「自閉症スペクトラム障害=ASD」では基準を満たさないとの報道があるようです。
ただ、もともと、アスペルガー障害をも包摂する概念が「ASD」だったのではないかと思うのですが。
このあたり、デリケートな問題ではあります。
診断の運用のあり方が本人、周囲にとってプラスになるようにと期待します。
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先日の研修会では、担当2年目の先生の事例発表がすばらしかったです。
1 子どもの実態、反応を見ながら、指導方法を柔軟に立て直している。
2 構音指導では視覚的な支援を多用し、「音の渡り」が子どもにもわかりやすい。
3 構音や口腔機能についての基礎知識がしっかりしている。
4 生育歴情報等の情報収集がしっかりしている。(ただし、学級担任からの情報収集や検査結果の解釈には課題がありました。でもこれは、経験の長い先生にも課題とするところであり、本当はそこにターゲットを当てた研修システムの確立が、支援者のニーズなわけですが)
とても2年目とは思えない質の高い発表でした。
明らかに、1年間の教室内での研修の積み上げがあると感じました。
この教室では、比較的安定した人事を背景とし、経験の長い先生を中心に、学術的根拠に基づく質の高い研修に熱心に取り組んでいました。
だから、新しい先生は、子どもの構音の着実な進歩を経験できるわけです。
機能性構音障害は、きちんとしたアセスメントと基礎知識、子どもを見るセンスがあれば、確実に改善するものです。
卒業まで改善しないままだとすれば、指導に問題があるのです。
記録の取り方だとか、お手紙の書き方などという枝葉末節なところにこだわるのでなく、子どもの利益を最優先に考えた研修内容を組み立てて欲しいものです。
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当地方の言語の研究協議団体の総会、研修会がありました。
総会では、道言協(北海道言語障害児教育研究協議会)の「言難ABC」(新しい先生向けの研修会)への参加旅費の補助を向こう5年間措置する会計予算案、および、地域の経験の長い先生の指導を参観したり、話を聞きに行くための旅費を向こう5年間補助する会計予算案が原案通り可決しました。
また、これまでこのブログでも何度も取り上げた「自主研修会」を会の正式な動きとするための会則改正案も可決しました。
これにより、新しい先生の研修支援のための「予算の矢」、「場の矢」の2本が放たれたことになります。
最後の一本の「矢」を放つのは、ハードルが高いのですが、何とか合計「3本の矢」として実現したいところです。
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私の所属する学校には、「院内学級」があります。
近くの総合病院に出向いていって、院内に設置されている学級で、入院中の児童と出会います。
久しぶりに補欠授業を頼まれて、もう一人の先生と行ってきました。
通常学級での教科指導の経験豊富な先生の1対1の授業は、子どもの学習能力のアセスメント、推理がすばらしく、どこでつまずいたかを超スピード、超正確に判断、直ちに手立てが出てきて、私は足下にも及ばない気持ちでした。
餅は餅屋です。
通級担当の立ち位置は、やはり勉強でなく、自立活動だなあと感じた瞬間でした。
ところで、院内学級の補欠授業と言えば、様々な思い出があります。
10年を振り返ると、歩行困難なお子さんがとても多かったです。
あれだけ関わりが難しく、手を焼いたのに、病気が治り、院内を自分の脚で歩けるようになって、それまで見たことがないような満面の笑顔、生きる喜びの表情を見せ、とても素敵な関わりを最後に退級したお子さんもいました。
看護師さんや看護実習生さんも同室して、楽しくゲームをしたこともありました。
長い入院生活になるほど、お子さんの心理的な負担は強まり、行動にも出てしまうのです。
退級時の満面の笑顔を見たとき、入院中にいかに心を励まし、信じ続けるかが大事かを思い知らされました。
院内学級って、こんなに素敵で、やりがいのある仕事なんだなあと。
テレビ番組でもやっていたようですが、現実もドラマチックなのです。
機会があれば、ずっとやってみたいとも思いました。
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