ハンドルネーム ya
某公立学校通級指導教室担当教員
言語聴覚士
特別支援教育士(S.E.N.S)
性別 男
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かつて日本の多くの学校では、食事の際、「三角食べ」
つまり、一つの料理を「ばっかり食べ」しないで
少しずつ順繰り食べるということをしつけられましたが。
外国では、メインディッシュを頂いて、次に、が常識ですよね。
私は給食指導でも、家庭でも、どういう順番に食べるかということは
ほとんど言いません。
国によって常識が違うだけでなく、
栄養学的には、どういう順番で食べようと
あまり関係がないらしいですから。
食事でまず一番大切な目標は「楽しめること」だと思うのです。
好き嫌いの多い子に、食べる順番の指導なんて、ナンセンス、
だと思うのです。
そこれそ、指導の「順番」が違うでしょ、と。
外国語も、まず読み書きの前に、コミュニケーションの楽しさが
大事だと思いますし、今回の学習指導要領の改定でも、
そのことがうたわれています。
今年4月から、小学校でも「外国語活動」が必修となり、
5,6年生は週1時間相当が時間割に組み込まれます。
今、先生方で分担して、授業内容を組み立てているところで、
私は5年生の「クイズ大会 What's this?」を担当しています。
通級指導の経験が長い私にとっては、
通常学級での指導を組み立てるというのは、結構ハードルが高いです。
子どもの状態像を見立てて、よりフィットする教材を開発して、
というよりも、5年生一般の発達レベルに合わせて、取りあえず作ってみる、
という要素の方が強いです。
そして、教材一つにしても、学級の人数分、
またはグループ分作成しなければならない、ということもあります。
そうした学級担任の先生の苦労を知ると言う意味でも、有意義ではありますが、
通級指導のノウハウを動員したり、逆に通級指導にも流用できそうな内容が
含まれていることが改めて分かってきました。
一方、中学校での外国語の学習指導要領では、
***
***
これらは、実はコミュニケーションの苦手な子への
ソーシャルスキル指導と重なる部分が多いと思っています。
たとえば「約束」では、相手に一方的に伝えることが「約束」だと思っていて、
「約束の時間に来なかった」ということが起こりがちな子がいます。
また、人を誉めると相手の気持ちが良い、ということを体験的に学ぶ機会や
実際の誉めことばのボキャブラリーが少なかったりします。
まさに、発達障害のある子にとって、それらは外国語を学ぶのと同じ
感覚なのかもしれません。
そして一番大切なのは、スキルそのものというより、
「コミュニケーションが楽しいという経験の保障」なのでしょう。
参考までに、
小学校学習指導要領
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/syo/
第4章 外国語活動
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/syo/gai.htm
小学校学習指導要領解説
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/syokaisetsu/index.htm
中学校学習指導要領
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/chu/index.htm
第9節 外国語
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/chu/gai.htm
『ことばが劈(ひら)かれるとき』(1975 思想の科学社)の著者
故 竹内敏晴先生は、
「ことば」とは、「からだ」=全存在の志向と身動きが生み出し、
分泌し、そしておのれに対峙させるもの
と言っています。
子どもの「ことば」をとらえるには、
その背景にあるものを理解することが大切です。
身体もその一つだと思うのです。
たとえば、舌の緊張を見るだけでなく、身体全体の緊張のコントロールを
見ることも大切です。
そして体力、筋力だけでなく、柔軟性とか、自己の身体に
自分で気づくということもとても大切だと思っています。
同じ音楽を聴いても、体調の良いときと良くないときとでは、
聴こえ方が全く異なります。
親の体調がよくないと、普段かわいいと感じている我が子の振る舞いが、
自分をわざと困らせているとさえ感じてしまいます。
子どもの体調が良くないと、見えるもの、聞こえるものが
全て嫌になってしまうことがあります。
食べ物の好き嫌いも、調子の良いときと、良くないときとでは、
許容範囲が変わってきます。
このように、周りの事象への感じ方は、心身の状態から
大きな影響を受けます。
一般的なサポートも大事ですが、身体も含めたサポートが
必要なケースがあります。
以前同僚の先生方と少し習っていたヨーガが、
役に立つ時が来るとは、思っても見ませんでした。
親子の顔の表情、目の輝き、身体、生活リズム、やる気などに変化が訪れるとすれば、
それは支援の一側面として十分有効であるということでしょう。
ヨーガというと、痩せるためのスポーツとか、腰痛、肩こりに効く
というイメージがありますが、実はもっと奥深いものです。
ヨーガは、自分自身を自分で感じ取り、
理解していく過程であるとも言えるでしょう。
学習指導要領には、身体をほぐす運動を通して、
自分の身体の変化を感じ取ることが書かれています。
であれは、ヨーガはその目的に十分かなっていると思っています。
障害の有無にかかわらず、障害そのものを治すということでもなく、
心身が心地よく過ごせるということは、誰にとっても
どんな環境にあっても、とても大事なことだと思っています。
身体が柔軟な人は、必ず思考も柔軟だとか、
その逆も必ずそうだとは思いませんが、
心身に柔軟性があることは、余裕をもって暮らすために必要な要素の
一つであることは間違いないように思います。
地域の子ども会連合会や児童センター、
自治体などが共同で運営する
お祭りに行ってきました。
毎年、母の日の開催ということもあり、
お花のコーナーが設けられています。
今年も、娘が造ってプレゼントしました。
贈る方も、贈られる方も、ほのぼのとします。
指導してくれた方は、お花に詳しい方のようで、
専門性の高さにほれぼれしてしまいます。
私には「超苦手」な分野です。
今日放映のハートキャッチプリキュアも、
母の日をテーマにしていましたが、
感動のあまり、子ども達に涙をみられないようにするのが
大変でした。
歴代のプリキュアの中で、心を
しかも、子ども達だけでなく、大人も含め、
つらいアンビバレンツな心情を
真正面から取り扱うシリーズは初めてでしょう。
だから、
「大地に咲く一輪の花」
と言って変身するのを見ただけで涙が出てきます。
私は若いとき、そうやって自分を励ましてきたので。
その道を究めてきた人と出会ったり、
つらさをまっすぐ受けとめ、それでも前向きに生きるという
いい話に出会ったりすると、とても励みになります。
その一方、これは影響を受けない方がいいという事象も
あります。
昔は、許せなくて戦いモードだったのですが、
今は年をとりました。
「あきらめ」
の大切さをかみしめます。
「あきらめ」とは、ためいきをつくことではないんですね。
「あきらめ」は「諦め」、「明らめ」
つまり物事の道理を明らかに見つめ、理解することなのでしょう。
思い出しましたが、「ニーバーの祈り」というものを
教えてくださったことがあります。
***
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
***
変えられる、変えられない、はそう簡単に分けられるものではないでしょうが、
しかし、振り回されずに、冷静さをもって、
自分にできることをコツコツしていくこと。
これからも大切にしたいです。
それにしても、お祭りの「犯人さがし3名」
写真の3名を見つけてスタンプをもらったら、射的ができる、という企画。
相貌認知が弱い私には、子どもに何の力にもなれず・・・。
改めて私の弱点がはっきりしたのでした。
こちらにいらっしゃる「他校通級」だけでは足りないので、
自校のリソースと平行で支援を行う体制を組ませて頂きました。
具体的には、言語特別支援学級へ週1~数回「自校通級」し、
週1回、こちらにいらっしゃる「他校通級」との併用です。
先方の学校のコンセンサスを得るのに苦労されたようですが、
試行的な位置づけとして、まずは認めてくださったようです。
先方の先生は、センスややる気がすばらしく、
このケースに限っては、私の指導記録をそのまま送信しても良いと
判断しました。
親御さんも快く了承してくださいました。
先方からも指導記録が送信されてきて、電話でのやりとりもできて、
きわめて良好な連携が取れています。
子どもの見立てや指導の手立てはすばらしい。
私が初期から関わらせて頂いた先生なのです。
実は、臨時採用の先生です。
子どもの状態像がみるみる変わっているのです。
通級の基本は自校通級だということを改めて実感しました。
指導記録には、専門用語を使うのが原則です。
発音の記録は、発音記号で。
構音指導は、発音記号でアセスメントし、発音記号で指導計画を立て、
発音記号で指導するからです。
日本語の「あいうえお」の体系では、構音指導はできないのです。
たとえ日本語にある音の指導であっても。
それは国語の指導とは全く異なるものです。
初任者には、発音記号がわかりにくいからわかりやすく、
という議論もありますが、
それは通級担当のめまぐるしい人事異動の問題であって、
指導記録の書き方の問題ではありません。
医者のカルテが専門用語なので、素人にわかりにくい、
と文句を言う人がいないとの同様です。
素人にわかりやすく書いたら、
カルテは一回の診察で何十ページにもなるでしょう。
それでは、患者と向き合う時間が犠牲になりますね。
教員は医者とは確かに違います。
しかし、通級担当の専門性は、今の教員養成カリキュラムでは
とてもとても、足りないのです。
特別支援学校の免許だけでは足りないのです。
特別支援学校の専門性と、普通学校の通級指導教室の専門性は、
確かに共通部分もありますが、全く同一視はできません。
お手紙は指導記録とは別に作るものです。
なぜなら、指導記録とお手紙とは、その目的が全く異なるからです。
指導記録は、科学的、客観的、クリティカル・シンキングが前提です。
(もちろん、関係論など、「客観性」そのものに本質的な
問いかけをする学問領域があることを否定するつもりはありませんし、
それも一つの学説であると思っています)
一方でお手紙は、先方の苦労をねぎらい、
通級時の子どもの様子をお伝えして、共通で取り組めることを
一緒に考えることが目的です。
ならば、手紙だけでは不十分で、やはり双方向のやりとりが重要です。
しかし、この先生に限っては、センスと熱心さがすばらしく、
指導記録をそのままやりとりしているのです。
こんなことは、過去にも、これからもあまり例がないでしょう。