ハンドルネーム ya
某公立学校通級指導教室担当教員
言語聴覚士
特別支援教育士(S.E.N.S)
性別 男
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『狛江市 育ちの森』(子育て支援ネットワークマップ)
http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/27,31912,128,html
特に裏面。頂いたパフレットの図の意味を中川 信子先生から直接うかがいました。
生まれてから中学校卒業まで、「育ちの森」の中で、あのとき、あの場所でこんな支援を受けてきたね、楽しかったね、とふり返られる森、というイメージだとのこと。
胸にジーンと来てしまいました。
明日は、子どもの発達支援を考えるSTの会主宰で、言語聴覚士の中川 信子先生のご講演です。
平成18年9月15日以来です。
当時は、全道大会ということもあり、400名近くの方が見えました。
今回も、チラシもまかれましたが、口コミでも広がっています。
http://kotobaroom.blog.shinobi.jp/Entry/252/
構音の指導研修DVD頒布受付中 ~2014年1月10日まで
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北海道言語障害児教育研究協議会主催の新しい先生への支援のための研修会でした。
参加者は、ことばの教室等の経験が0年から長くても数年の先生方ばかりで、発音記号の「ロングエス」の内容からの講義になりました。
「構音練習はいつやるか?」
「今じゃないでしょ!」
構音練習の開始条件は、子どもの言語発達年齢が、おおむね4歳半以上に達していること。
構音だけが切り取られて存在するのではなく、人と人との相互のコミュニケーションの延長線上に構音はあること、よって、構音練習の前に、コミュニケーションが育っているという前提条件が必要であること。
子どもの発達、コミュニケーション等を詳細に評価し、「適時」を判断することが大切である、とお話させて頂きました。
その前提で、構音指導を開始するには、構音についての正確で体系的な評価が必要であることなどを、実際の音声サンプルを聴いて記載する実技を通して学びました。
今回の研修企画は、新しい先生向けに、「子どもの見方・とらえ方」、「構音障害」、「難聴」、「吃音」の各講座を設け、それぞれ2~3時間ずつ、合計2日間にわたって開かれました。
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上野 一彦先生のブログに、DSMの最新情報について載っています。
http://u-kaz.jugem.jp/
「障害」から「症」への訳の変更が検討されているとか。
訳し方で、イメージがだいぶ違いますね。
訳の変更が、インクルージョン教育への一助となることを願います。
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私達の現状
1 専門性の欠如
・音声言語の表出を発達の指標としている点は良いが、音声表出に重きを置きすぎるあまり、非言語的コミュニケーションのチャンスを見逃している。
・診断名を発達の評価の材料のひとつにしているのは良いが、個別的ニーズではなく、診断名で子どもを分類し、指導仮説を立ててしまう傾向がある。
・「みんなが同じ」という指導は社会性の育成の価値基準になるが、個別的ニーズを見落とす傾向もある。
・「努力すれば誰でも必ずできる」という意気込みは良いが、個々による得手不得手、達成レベル以上の期待を持ち、過剰な負担を与えてしまうことがある。
・学級担任が必要以上に自分を責めたり、劣等感を抱いてしまう。
・発達障害、行動障害は、重度の児童虐待は別として、中枢神経系の先天異常が基本であるにもかかわらず、親の療育態度のみに障害の原因を還元してしまう傾向がある。(稚拙な因果類推)
・善悪の二元論だけで発達臨床を片づけてしまい、子どもの背景や、情緒を多角的視点で捉える力が弱い。
・具体的な対応法、技術の引き出しが少ない。
・「どこまでが障害で、どこからがわがままか」などと、障害と健常を機械的に分け、子どもをトータルではなく二元論で分類しようとする傾向がある。
・障害に対する基礎知識、臨床診断能力の欠如
2 教師の条件的問題
・時間的、物理的多忙
・専門性の向上のための研修機会の不足
・免許制度、指導者養成体制の不備
・地域に児童精神科医がいない。
・多職種で、多角的に子どもの臨床をとらえるシステムがない。
***
以上は、2001年(今から12年前)に、有志で研究会を立ち上げようとした時のレジュメの一部です。
結局は転勤で、このプロジェクトはなくなってしまったのですが。
こうして読み返すと、今とあまり変わっていないかなあ。
発達を診てくれる医師は、この時以来、いらっしゃるようにはなりましたが。
未だに障害名で子どもを見ようとする傾向、善悪や二元論で子どもを見る傾向は続いています。
子どもの言動を評価するとき、まず善悪という二元論を横に置いておいて(緊急事態や、即時強化も必要なので、その場でのそれなりの対応は必要ですが)、その行動がなぜ生じたのかを検討することこそ、特別支援教育の本質に迫ることになるわけです。
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こうした質問は、周りの子から、本人から、そして先生方から寄せられることがあります。
特に先生方から「周りの子に、どうやって説明したらいいですか?」
と尋ねられます。
そうした場合、
「今まではどう説明してきましたか?」
「今までは、どのようにその子に対応してきましたか?」
とお尋ねします。
「聞かれたことはないけれど、今後聞かれた場合に」
という回答も多いです。
そして
「医師の診断を受けていないのに、説明をどうやったらいいですか」
と。
幼稚園の先生は、この点、説明がとてもうまいです。
「○○くんは、まだわからないから、△△をしているのですよ」
そして、その子への対応は、他児とは違っていても、違和感は特にありません。
「まだわらかないから」には、「わざとではない」というニュアンスが入っていて素敵です。
小学校の対応の上手な先生は、
「(みんなは)、○○ページをノートに写しなさい。○○くんは、まず教科書を出してみよう。はい、よく出せたね」
と、みんなとは違う、スモールステップの個別の教育目標をただちに設定して、達成したらほめるということをされていました。
それは他の子にとっても、教科書を開くことは望ましい行動なのだ、ということを間接的に強化していることにもなります。
毎日の接し方が「説明」の姿であって、「この子はADHDだから」ということばの説明は、かえっておかしな方向に行ってしまうのでは、と思います。
「ことばが上手じゃないから、ことばの教室に通っています」
というのは、ネガティブな説明で、望ましくない説明でしょう。
日常会話の中で、発音の誤りがあっても、さりげなく正音を返してあげる関わりを先生が見せてあげることが、その子への対応へのモデル提示になるわけです。
「だんだん上手に言えるように、練習しているんだよ。発音を間違えていても、聞き取ってあげましょう」
非言語的な説明、モデルとしての説明がまずあることが重要だなあと。
医学的な診断は、説明を補強することには、必ずしもつながらないのだと。
普段から、「みんな違ってみんないい」ができていないと、いきなりタブレットを与えることで、他児がうらやましがって、人間関係が悪化するということもあるようです。
「土台」ができていなくて、いきなり手段に行くことで、本人にとってかえって負担になるのであれば、「非合理的配慮」なのです。
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「合理的配慮」とは、文部科学省HPによれば、
「合理的配慮」とは、「障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。
障害者の権利に関する条約(H19署名、未批准)
「過度の負担」は、学校の先生にとっても、周りにとっても、そして本人にとっても、ということ。
今日、NPO法人エッジの方は、「学校の先生が、夜遅くまでその子のために教材準備をするのは過度の負担であって、合理的配慮ではない。たとえば、簡単にコピペで対応できたり、100円ショップで買える程度でなければいけない」とおっしゃっていました。
ただ、学校の先生は既に持ち帰り仕事が常態化し、心身を病んでいる先生も本当に多くなりました。(ワタシもですが)
今の状態だけでも十分「非合理的」なわけです。
「合理的」か「非合理的」かの判断は誰がどのような基準でするのでしょうか。
口では簡単に言えますが、第3者委員会を作れば足りる、というほど単純ではないでしょう。
「過度の負担」は「合理的配慮」ではないですよ、と宣言したこと自体は評価できますが。
以下には、合理的配慮の例が載っています。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/044/attach/1297377.htm
また、「合理的配慮」の提供として考えられる事項としては、
(ア)教員、支援員等の確保
(イ)施設・設備の整備
(ウ)個別の教育支援計画や個別の指導計画に対応した柔軟な教育課程の編成や教材等の配慮
を挙げています。
ただ、特別支援教育を担当する前に、十分な研修を積んで現場に臨める体制を作ることは、先生方にとっても、本人にとっても、「合理的配慮」につながるのだろうと思います。
基礎知識や実技の研修を受けることで、現場ではもっと、先生も本人も楽にできるだろうに、と思えることが、少なからずあります。
つまり「合理的配慮」は、教員養成課程の仕組みに対しても求められている、と考えるべきではないでしょうか。
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バウムテストH-T-P風景構成法そして図工で描いた行事の絵などなど。図画を見て、発達段階や心理的な状況をある程度評価できることがあります。凝った解釈になると、右側が未来を示すとか、木の根っこが長いとどうだとか、頭足人だとボディーイメージができていないとか・・・。確かにその通りかもしれませんし、ある程度統計学的な根拠もあるのでしょう。そして、もう一つの視点を私は最近特に大切にしています。絵の全体的な印象、雰囲気を感じ取る、ということ。視点を変えると、同じ絵でも、全く違ったものに見えてくることがあります。部分に注目しているとわからなかったのが、全体を見たときに、「ああ、このキャラクターは描いている子ども自身なんだ」と気づき、絵の印象が180度変わることがありました。その瞬間、その絵のタイトルの本当の意味、子どもの置かれている状況が、日常感じていることを如実に示している、と感じることがあるのです。私は絵の才能はないですし、人物画は基本ゲジゲジです。一応、ボディーイメージに困難を感じることはありませんが。だから、芸術関係はだめだめなのです。でもだから、余計に感じたのかもしれません。トータルな総合的見立てと、細部への丁寧な視点。科学的な客観的視点と、主観的に「観じる」視点。見立てが変われば、支援の方向性も変わります。図画だけでなく、両方を大切にしていきたいと改めて思いました。
有名ではなくても、下積みをコツコツされている支援者と出会うことがあります。
センス、基本的知識、トータルな判断、子どもへの接し方の温かさ・・・。
そういう支援者と出会うと、励まされ、学ばされる思いです。
そして、これが本物だと感じるのです。
まだまだ、捨てたものではないなあと。
経験年数が少なくても、謙虚に学ぼうとする支援者との出会いも、励みになります。
このブログコメントに投稿してくださる方からも感じます。
元々、私は学会にこっそり出かけて、アカデミックな知識を得て、現場の子どもたちに還元することを愛する人でした。
資格は取るためではなくて、勉強したかっただけで、その先に資格があっただけのこと。
今では、あちこちから講演依頼が来るようになりました。
そんな忙しい日々を送っていると、下積みの日々の楽しさ、時にはつらさを忘れてしまいそうです。
もう一度そんな時代に戻りたいけれども、周りがそれを許さない状況になっています。