ハンドルネーム ya
某公立学校通級指導教室担当教員
言語聴覚士
特別支援教育士(S.E.N.S)
性別 男
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馴化法という方法で、生後数ヶ月の赤ちゃんの「見え方」がかなりわかってきているのですね。
欠けた図形を補って見る(たとえばパックマン図形)ことが困難な、学習障害のある子どもがいます。こうした子は、まず文字を書く以前に、文字の形態把握の段階でつまづくでしょうし、読めても書く段階でつまずく場合もありえます。
ところが、通常発達では、パックマン図形を生後3ヶ月でも、図形が動いていれば知覚できる。
生後6ヶ月で、動きがなくても知覚できるとのこと。
色を見分ける力も、なんと生後2ヶ月で赤・緑経路の色弁別が可能。
生後3ヶ月で、青、黄の色弁別が可能。
つまり、「アオ」ということばを覚えてから色弁別ができるのではなく、ことば以前に弁別ができるということ。
動く物体をとらえる時、その動きの速さにも、見える範囲があるということ。
手を振ってバイバイ程度の手の動きなら、かなり早い時期に見えているが、遅すぎたり、早すぎると、もう見えない。
前に向かって歩いていると、風景が前方一点から広がって見えるし、後ろに向かって歩くと、風景は前方の一点に集約されます。
なんと生後3ヶ月でそれが知覚できるとのこと。
首が据わったころには、風景が広がっていく状況を認識できるのですね。
さぞかし、赤ちゃんにとっては、感動的で楽しい風景であることでしょう。
ケアマネージャーでも、
対象者の把握→情報収集→アセスメント(課題分析)→ケアプラン案の作成→サービス担当者会議(本人、家族、サービス提供者参加)→ケアプランの確定→ケアの提供→モニタリング
という一連の過程を通るそうです。
やはり、対象者のアセスメントはきちんと行うわけです。
半身の軽度麻痺で、トイレまでの自立歩行が困難な事例に対して、それまでの環境をできるだけ変えずに、支援の方法を。
ベットから起立するまでの過程のみに、手すりをつけてあげるだけで、その後は自立歩行が可能になる。
まさに、課題分析ですね。
医療でも福祉でも、建設でも、動植物の保護のためにも、「アセスメント」は必要なわけです。
学校教育はどうか。
「アセスメントは必要ない」と豪語する、某通級担当の先生。
いかがですか。
患者の病気のことだけでなく、学習スタイルやおいたちを含めたアセスメントが重要。
「指導目標は達成可能であること」
「指導目標の精選」
指導目標で「○○が理解できる」では、評価できないので、「○○が説明できる」
指導目標を立てたら、具体的な教材の用意。
セルフケア行動の指導のためには、患者のステージ「前自覚期、自覚期、行動変化期、行動期、維持期」に合わせた指導が必要であること。
・・・
学校教育と全く同じだと思いました。医療でも、患者理解から看護へ結びつけるのです。
ことばの教室では宿題を出すこともあるけれど、本人や保護者のステージを常にとらえて、適切なかかわりをしていかなければならないでしょう。
否定的な評価は避け、少しずつステップアップしていくように。
自分や同じ病棟にいた友達の「死」に対して、子どもがどう向き合うのか、どう支援、看護するのかというテーマを扱った講義でした。
4歳までは「死」を「寝ている」ものとしてしか理解できない。
5歳から9歳までは「死」を擬人化する(お星様になったんだ等)
10歳以降で、命の不可逆性、永遠の別れが理解できる。
だから、子どもの実態、発達段階に応じて、死の説明を検討すること。
「退院したんだよ」
というウソの説明は、4,5歳の子どもでもわかってしまう。
看護師に対して不信感を持ったり、トイレで一人で「怖い」と泣いたりします。
それまで一緒の病棟で暮らしていた「友達」が、個室に移って、周りが騒がしくなって、そして静かになる。
それを「退院したんだよ」と説明して、納得できるはずがない。
なぜなら、退院する子は、周りの子に報告して、お別れの挨拶をしていくはずだから。
それまで、いつも連絡、報告してくれていたのに、急に連絡なく、いなくなるのはおかしいと。
「○○くんは、お星様になったんだ。だから今はお別れの挨拶にいけないけれど、いつかおうちに行って、最後のお別れの挨拶をしにいくんだ」
と答える子どもは、死について、発達段階に応じた説明を受けているのでしょう。
そして自らの死。
脈拍や体温、呼吸、触覚の低下、光への過敏性など、自分の体が変化していくことへの不安、恐怖。
夜中に「眠れないから、絵本を読んで」とナースステーションにやってくる幼児。
できるだけ、子どもによりそうこと・・・。
そして家族への支援。看護。
人生の最後まで、人としての尊厳を守ろうとする看護師の姿勢、そうしたスピリットが看護師を養成するカリキュラムに反映されていることに、強い感動を覚えました。
***
私の双子の妹が、生後すぐに亡くなったことを親から聞かされたのは、9,10歳ぐらいだったと思います。
だから、死の不可逆性は理解できていたと思います。
ただ、それが重大な意味だとわかったのは、さらにずっとあとだった気がします。
今、生かされていることの意味を考えました。
そして、どんな子も、最後まで人としての尊厳が守られなければならない。そうした視点で、特別支援教育を見ていきたいと思いました。
重病で安静が必要な子や、伝染病により他の人に病気が伝播する恐れがある子に対して、子どもを個人病棟に隔離することがあります。
講義では、隔離が必要な条件、隔離の仕方などの説明がありました。
その時の印象は、「あくまでも子ども視点に立っている」ということです。
***
保護者は隔離病棟に入室する際は、マスクや手袋、指定の服を着なければなりません。
しかし子どもにとっては、保護者のそんな姿を初めて見るので、不安になるでしょう。
お母さんがマスクをしていると、顔の表情が読み取りにくくなるので、子どもは不安になります。
手袋を通してしか、子どもに触れることができないことも。
そして、窓の外では他児が遊んでいて、うらやましく思うでしょう。
狭い病室で、生活リズムが単調になるから、巡回の時は、できるだけ長い時間をとって話しかけてあげましょう。
歩いてトイレに行ってはいけないのに、自分で歩いて行こうとする子には、
「あの子は歩いて行けるけど、あなたは看護師を呼んでね。そうしたら、車いすに乗ってトイレに行けるよ」と具体的にやり方を教えること。
「ベットから降りてはいけない」の指示に従わず、ベットの上でトランポリンの様に跳んだり、隣のベットとの間を渡り歩いて遊んでいる子に注意したら、「だってベットから降りていないよ」よ。
子どもはふざけているのでなく、わからなかっただけ。わかるように具体的に説明すること。
***
このように、隔離や身体の保護についての説明だけでなく、子どもはこういう気持ちになるから、身体拘束を続けることで、知的、社会性、手先の巧緻性の発達に影響するから、拘束は最低限度に、という説明が、あくまでも「子ども視点」なのに感動しました。
ところが、教育に関する講義ではいつも思うのですが、「学校体制」の説明が多い気がします。
図書室の活性化のため、「○○コーディネーター」を配置して、地域と連携する組織を作って、など組織図が多い。
本に興味が持てない子、文字の読みが苦手なので本を毛嫌いする子、運動の方がしたい子、「自主活動」と称して、実際には、休み時間も係活動を強いられ、友達と遊ぶ時間が無い子・・・。
学校には、様々な子どもの実態があります。
それらの子どもの実態を見ずに、「学校図書を活性化させるために、こういう組織を作りました」
子どもの気持ちから遠いなあと。
医療と教育とでは、どうしてこんなに差があるのでしょうか。
もちろん、医療は、一人一人の患者さんと接しますし、学校は一度にたくさんの子を動かさなければいけない事情もあるでしょう。
でも一番の問題は、学校はやらなければいけないことが多すぎること。
やらなければならないことの縛り、決まりが多すぎること。
「○○コーディネーター」という名称だけで、何種類もあります。
生徒指導、図書、特別支援教育、いじめ、食育、体力、学力・・・。
多すぎです。
教員は様々な組織を掛け持ちで、学級の授業以外の仕事を背負っています。
この問題に集約されていくような気がするのです。
学校教育に、もっと、子どもの側に立った視点がほしい。
そうした研究がもっと増えてほしい。
色々なプロジェクトを縦割りで学校に課すでなく、それらのプロジェクトが現場レベル、子ども個々のレベルで、どれだけ負担になっているのか、トータルな視点での研究の進歩を望みます。
親の会でお話しすることになっています。
基本的なお話を聞きたいとのことでしたので、ことばの教室のシステムや障害種別の説明をします。
でも最後は、障害種別を超えて、全ての子に必要なことをまとめています。
エキスです。
知らず知らずのうちに、「標準に近づかせようとする」指導を私たちはしていないでしょうか?
極端な例、WISC等の検査の評価点を上げるために指導をしてはいないでしょうか?
各種検査は、能力の一部しか測っていません。
検査は、子ども理解のツールの一つではありますが、検査の成績を上げるために指導があるのではありません。
目先の視点ではなく、その子の自立のために必要なことを考えることでしょう。
本当は、保護者の先輩にそのあたりをお話して頂いた方がいいと思いますが、今回の講演は、従来の4倍から5倍の参加希望数のようです。
地域、時代のニーズに合った企画、内容をこれからも考えていきたいです。
当教室では、以下の約束事で、作成することになりました。
***
1 各目標は、支援者の視点ではなく、子ども本人からの視点で書く。
例)
×「○○させる」
×「○○体制を強化する」
○「○○できる」
○「○○の支援のもとで、△△ができるようになる」
2 目標設定は、支援目標→年度目標→短期目標と、下位に行くほど具体的にする。
例)短期目標
×「流暢なことばで話すことができる」
→○「絵の説明課題で、助詞『が』を用いて話すことができる」
→○「吃音の発生時には、一度緊張をゆるめることが自分でできるようになる」
×「発音が改善する」
→○「シ音について、自由会話レベルまで正音が出せる」
→○「舌平らが安定してでき、『ジ』が単音節レベルまで安定して出せる」
(どの音がどのレベルまでできるのか、を具体的に書く)
※ あとで評価がしにくい目標設定は無意味。
3 通級の支援目標は「発音が改善すること」そのものではなく、発音が改善する「ことによって」スムーズな言語コミュニケーションがとれるようになることが目標。
4 無理な目標設定は行わない。達成しやすい目標を設定する。
週の限られた通級時間に見合った目標設定にする。
5 目標も手立ても、その時によって柔軟に変更ができる。一度作ったら二度と変えられないわけではない。保護者や同僚と相談の上で変更を検討する。
6 各目標は、「自立活動」が主であり、「教科の補充指導」を主たる目標にしてはいけない。
例)×「九九を間違えずに暗唱できる」
×「2桁-1桁の繰り下がりの計算ができるようになる」
7 他の職員に予め見せて、助言を受けてから保護者に見せて、話し合って同意に至るのが望ましい。
***
構音の指導目標の設定のためには、現状の構音の状態を評価しなければなりません。
どの音がどのレベルから障害音となっているのか。
ただばくぜんと「不明瞭」とか、「カが発音できない」という曖昧な評価では、指導計画は策定できません。
つまり、指導計画を策定する作業そのものが、実は子ども理解を深める過程です。
「まずは作ることに意義がある」
亡くなった先輩のことばは、「形を整えなさい」という単純な意味を指すのでなく、「作成を通して、子ども理解、知識の学習のために、もがきくるしみなさい」という意味を指していたのでした。
だから、形だけをまねするのは無意味なのです。
今年度の当教室への教育相談は、例年より多いのだそうです。
前任校ではこの程度のペースでしたが、当教室としては既にハイペースです。
その原因のひとつとして、家庭訪問時期の前に、教室パンフレットを学級担任に配ったこと。
家庭訪問時に教育相談を紹介してもらい、つながるケースが多いようです。
支援を必要としているのに、つながっていないケース、支援の頻度や程度と、子どもの実態とが合っていないケースが多いように感じています。
措置判断のシステム、相談のシステムがうまく機能していなかったように思われます。
近眼の子にめがねを与えるように、特別の支援が当たり前のように提供されるように、システムを整えていく必要を感じています。
ヘルプを求めている子ども達のために。