ハンドルネーム ya
某公立学校通級指導教室担当教員
言語聴覚士
特別支援教育士(S.E.N.S)
性別 男
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・LDのある児童についての相談ということで、お話を深くうかがっていくと、まず基本的な人と人との関係性が芽生え始めた段階のお子さん。「学習」云々の前に、もっと大事な指導があるのでは。でないと、バランスを欠いた育ちを示してしまうよと。
・LDは学校の先生だけでは判断できない。専門家の意見を聞くことになっている。
しかし、その専門家が圧倒的に少ない。指導できる先生も少ない。少なくとも私の周囲には、科学的エビデンスのもとに指導できる人はいない。
・知能検査の結果やアセスメント情報をたくさん見ていくと、そもそもLDとは何かという問題に突き当たる。「全般的な知能水準に遅れはないが」の「全般的な知能水準」とは何か?
田中ビネー?
でも田中ビネーのIQは、小さいお子さんの場合、そもそも正規分布ではない。
精神年齢/生活年齢×100
ではWISC?
でも、指標得点間に有意差があるときは、FSIQは慎重な解釈を・・・。
下位検査がばらついても慎重な解釈を・・・。
知的障害との境界は?
数値的はわかっているけど、機械的には決められない。
結局は一人一人について、教育的判断をしていくしかない。
でも判断した先に、支援体制がその学校に整えられるのか・・・。
・そもそも、LDに本気で対応するための週5~8時間確保できる教員配置がなされていない。おまけに行政からは、通級担当教員配置のための時数、教員確保にあたって、「教科の指導補充の時間は原則含めないこと」というお達しまである。つまり「自立活動」以外の指導は保障しない、と言っている。
理想は高いけど、バックボーンが整っていない。
ひとつだけ確認したいこと。
学習障害の通級指導は、成績を上げるために行うのではない!
言語発達遅滞と言っても、様々な状態像があります。
自閉症スペクトラム障害や知的障害があっても、ことばは遅れますが、ここでは、文部科学省定義に合わせて、特異的言語発達遅滞を指すことにします。
失語症と言語発達遅滞とは同一視できません。
失語症は、一度獲得した言語能力が失われることであり、子どもの言語発達遅滞はそもそも獲得されていないからです。
だからアプローチの仕方も違ってきます。
子どもの言語発達の方が、どちらかというと経験とことばを結びつけていくことの重要性は指摘できます。
比較して、失語症の場合、経験的なエピソード記憶などが保たれていて、語想起困難(それが何かはわかっていて、特徴などの説明はできるが、ずばりその単語名が思い浮かばないだけ)など、特定の部分だけが障害されている場合、その部分へのピンポイントの指導ができるわけです。
たとえば、
「空を飛び、黒いカーカーと鳴く鳥はなんですか?」→「カラス」
というように、語想起をターゲットにした指導に絞れるわけです。
ただ、そのことは、子どもの言語発達遅滞において、特に語想起困難への支援に狙いたい場合にも使える可能性があります。
知覚推理が高く、視覚的な表象が形成されていて、カラスの属性も理解できていて、語想起だけが苦手という子には使えます。
逆に、カラスを見たことがない、イメージが形成できなくて「カラス」が出てこない場合は、この教材はフィットしないでしょう。
逆に、語想起は良好だが、その属性を説明することが苦手な場合、
「カラスとは何ですか?」
と説明課題を与えたりします。もちろん、選択肢にするなど、難易度の調整も必要でしょう。
失語症の教材を見ていくと、子どもにも使える、と思うことがあります。
「たばこの火を借りるときの会話」などはもちろん使えませんが、ある場面での会話の一部を穴埋め課題にするという課題は、ソーシャルスキルトレーニングにもなり得ます。
人は、日常会話の中で、相手のことばの反応の考えられる範囲を予測しながら聞いているはずです。
それであれば、定型句的な文を検討する教材に取り組むことで、予測能力を高められることにもつながるはずです。
それは文字の読みとも関連しているでしょう。
たとえば、「お茶が熱いので、フーフーと吹いて( )。」(答:「さました」など)
という教材の場合、( )は、前後のことばの文脈から、正解を絞り込めるわけです。
絞り込めないとすれば、そもそもことばの意味を理解していないか、熱いお茶を飲むシーンが想像できないか、熱い場合はフーフーとさます、という経験をしていないか、経験していても、知識として結晶化していないか、などでしょう。
一方、自閉症スペクトラム障害のある子ども向けの教材を見ると、発問の内容が広すぎたり、拡散的すぎる場合が見られたりします。
むしろ失語症の教材のようにターゲットを絞って、経験的、体系的、スモールステップ的に指導した方が合うのではないかと思えてきます。
失語症と言語発達遅滞とのそれぞれの教材を見比べることで、言語発達の見立てがより深まるのを感じています。
そして、通級指導においては、勉強そのものを教えるのではなく、学び方を教える場であること。たとえば、漢字の読み書きの指導の前に、こうした言語発達の基盤ができているのか、その基盤へのアプローチが、まず通級指導には求められると感じています。
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算数障害は様々な能力が関与しているため、算数障害のある集団というくくりをしても、能力的な特徴を見出すことは困難です。
…ということは知っていましたが、改めて統計的なエビデンスに触れることができました。
欧米では算数障害についてのスクリーニング検査や、実行機能や注意、エピソード記憶など測れる検査が充実しているのですね。
また、教材も充実している。一方我が国は?
昨日のNHKの人工光合成の話ではないですが、欧米では異職種の専門家が同じ屋根の下で一つのプロジェクトを作り、明確な目標に向けて取り組むのが得意ですね。だからイノベーションの能力は高い。そういう背景があって、特別支援教育、教材開発、検査の開発というのも進むのでしょうね。専門家の養成システムも、我が国に比べて進んでいる。
我が国では、学力の平均がどうしたとか言っていますが、イノベーションとか、専門性とかの方が、これからの国際関係の中では大事ではないかなと。予算のかけ方が違いまずね。
そういう意味においても、算数障害に対しても、成績を伸ばすためとか、凸凹を平らにするとかでなく、本人の学びやすさ、学習の楽しさを考えるということが大事ではないかなと。
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眼振検査とは?
http://medical-checkup.info/article/66606075.html
病院で、頭のふらつきを訴えると、上記のリンクのように検査を行ってくれます。
「注視眼振検査」と「非注視眼振検査」の2つを行うことで、体のどの部分に問題があるのかをある程度、見立てられるのですね。
私の病院での「非注視眼振検査」では、赤外線CCDカメラ(だと思われる)を使って、部屋を真っ暗にして、検査してくれます。
文字の読み障害、とりわけ、文字を順にたどって読めない状態の子の中には、動く対象物を注視しているとき、体の正中線を交叉する際に、眼振が見られることがあります。
ちょうど、司っている脳の部位の左右がチェンジする瞬間です。
ところが、読み障害はないのにも関わらず、眼振が見られる子もいます。
だから、
眼振がある→読み障害
とは、必ずしも言えないでしょう。
逆に、
読み障害がある→眼振がある
とも必ずしも言えません。
文字の読みは、実に複雑なプロセスを経由しているので、色々な観点から総合的に評価する必要がある、と思っています。
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「書きの困難」には、
・ 書写
・ 綴り
の2つがあり、両方に困難を示す場合もあります。
日本語の場合は、たくさんの文字の形、種類を覚えなければならないので、英語圏にくらべて、「書写」の比重が高いと思いますが。
そして、書くことは、
・計画力
・自分のしたことを振り返る力
・問題解決と、解決のための計画を立てる
ということにも、大きく依存しているとのこと。
読み書きの前に、それらの力が十分育っているのかということをきちんと評価しないと、子どもに加重な負担を与えることになります。
これらのことは、通常学級の授業参観をちょっとやって、1シーンだけを切り取って見てもわかりにくいことですね。
やはり、科学的な評価(神経心理学的アセスメント)が必要なのです。
小さい子どもの発話は、時としてその「ずれ感」がおもしろかったりします。
恐竜の絵カードを読んで欲しいというので、一つ一つ読んであげました。
「トリケラトプス」、「ブラキオサウルス」、「メガロサウルス」・・・
するとおもむろに、
「あのさ、アデノウィルスもあるしょ」
それは怖い恐竜ですねえ。はやっているからね。
「・・・ルス」の音が同じですね。
カテゴライズは違っていたけど、音の「照合」はできるのでしょう。
人は、人とのコミュニケーションの中でことばを獲得していきます。
中川 信子先生の「ことばのビル」をあげるまでもなく、「ことば」は様々な経験の最上階に位置します。
だから、ことばの意味を「お勉強」するだけで、それを獲得するわけではない。
ただ、こどもによっては、同じ経験をしているのに、ことばの意味理解が苦手な場合もあります。
一つ一つの経験を抽象化したり、逆に抽象的で難しいことばを使えても、その意味理解は表面的だったりします。
環境を構造化してあげることで、ことばの意味理解を獲得する子もいます。
ことばの教室での「自立活動」は重要だなと。
通常なら、日常生活の中で獲得する「意味理解」であっても、「短い」と「小さい」との違いを様々な例を挙げてわかりやすく教えてあげることが必要な子もいます。
ちなみに「短い、長い」と「大きい」「小さい」の概念は、通常の発達では未就学の段階で獲得します。
「短い」という漢字は小学校3年生で出てきますが、その段階で「短い」の意味がわかっていないと、漢字を教えても覚えにくいでしょう。
大学教授で、自閉症の当事者のテンプル・グランディンは、「犬」ということばを聞くと、「イヌ」という抽象化された概念で考えるのではなく、それまでに出会った犬のイメージを次々思い出して考える、という主旨をおっしゃっています。
具体→抽象、抽象→具体
が苦手な子には、視覚支援などを通じて、ことばの意味の多義性を教える必要があるでしょう。
「読む」「書く」よりも「聞く」「話す」がまずできているのか。
大事な視点です。
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「ヒッグス粒子」がついに発見された?というニュースは、科学の好きな私にとって身震いする思いです。
子どもにこの話をしたら、紙をハサミで限りなく小さく切り刻んで「できた」と言っていました。
かわいいですね。
IPS細胞で病気が治るという話しも、夢が広がります。
さて、今日は「読み書き障害」で検索していらした方が多いので、「科学的態度」と合わせてこの話題を。
私が、読み書き検査でよく使うのは、
『小学生の読み書きスクリーニング検査─発達性読み書き障害(発達性dyslexia)検出のために─ 』(STRAW)
と、
『森田-愛媛式読み書き検査(改訂版)』です。
前者は、レーブン色彩マトリクス検査(RCPM)と組み合わせて、
知的障害を伴わない発達性ディスレキシアをスクリーニング検査で検出するのが目的です。
私の場合は、知的な遅れがあるかどうかということとの関連で検討するために、
RCPMを使うことはほとんどなく、WISCなどとの組み合わせで検討しています。
そういう統計表にはなっていないのですが、私の使用目的は別のところにあります。
この検査自体は、統計学的な処理がされているので、「マイナスいくつSD」などと値は出ますが、
私はどのように間違えるのか、どのようにできないのかという点を重視して使います。
つまりスクリーニングというよりは、通級を担当している子どもの読み書きの状況を
評価するために使っています。使用目的が本来的ではないかもしれませんが。
しかしこの検査は単語までしかできませんので、文レベルでは評価できません。
そこで、後者の『森田-愛媛式読み書き検査(改訂版)』を使うことがあります。
ただ、検査も大事ですが、日常の国語のノートや作文を見たり、授業の様子の情報収集だけでもかなりのことがわかります。
しかし科学的なエビデンスに基づいた指導を行うには、やはり標準化された検査を組み合わせ、正確な解釈を行うのが科学的態度とも言えます。
統制されていない条件なのに、一回のお試しだけで傾向を判断するというのは、科学的ではないし、エセ科学そのものと言えます。
同じ条件で何度繰り返しても同じ結果が出ることが検証可能でなければ、科学ではないのです。
言語聴覚士関連の研修会の案内を頂いたので、聴いてきました。
発達性読み書き障害を中心とした症例と指導法のお話でした。
音韻意識をはじめとした、音韻性の読み書き障害と、視知覚などの視覚性の読み書き障害の典型例でした。
読み書きに困難があると、みんな「ディスレキシア」と呼んでしまう現場の混乱がありますが、知的な遅れがないことがディスレキシアの前提です。また、状態像等の横の情報と、生育歴などのタテの情報、そして諸検査などから、初めてディスレキシアと呼べるわけです。
今回の発表は、WISCやRCPM(レーブン色彩マトリクス検査)などから、知的な遅れがない子をピックアップしていて、PDDのある子などは研究から除外しているそうです。だから典型例ばかりだったわけですが、教育現場の人間としては、むしろ典型例の方が少ないと感じていました。
つまり、聴覚情報処理とか視覚情報処理や短期記憶の問題だけで,LDを説明しようとすること自体が、現場からは乖離しているわけです。神経心理学だけで、しかもその一部の概念だけで、LDの説明はできないのであります。
今回の発表では、典型例だけを扱っているということもあり、知的障害やPDDがないことが前提なので、「読解」「言語概念」「語彙学習」、そして「意欲」の問題はどちらかというと軽視されている印象でした。
療育関係のSTも、実際には様々な要因が重なっている、という実感を持っているようです。
子どものLDと、成人後の脳損傷後の失語症とは違う、という最大の点は、子どもは発達していくという部分なので、よりトータルに子どもの力を理解する必要があると普段感じています。それもあって、ますます典型例というのは少ないです。
「LDは、失語症のひとつである失読失書と同じでしょうか?」という質問が参加者から出ていましたが、LDにも様々なサブタイプがあり、子どもの発達と、脳損傷とはイコールではない、と思ってしまいましたが、講師も同様の見解のようでした。この点、異論のある方はいないと思います。
ワーキングメモリがLDの原因ではとの質問もありましたが、ワーキングメモリはあらゆる機序を含めてしまう便利な用語であって、LDだけでなく発達障害全体に言えるので、それ自体は説明や支援につながらない、という指摘もある程度その通りと思いました。そればかりか、結晶性知能、心内辞書など、ワーキングメモリ以外のことも検討する必要があるのでは、と思いました。
○○くんは、○○障害→○○障害の原因は、△△→△△を克服するには、××の指導法
とやってしまいがちになりますが、そうではなくて、
○○君→○○くんの特性の理解→○○くんへの指導法
でなければならないのだと思います。