ハンドルネーム ya
某公立学校通級指導教室担当教員
言語聴覚士
特別支援教育士(S.E.N.S)
性別 男
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「子どもと言えば、青い空が似合う」と考えがちです。
しかし、子どもにとっての空は、
いつもこの瞬間も変わっていて、
高さはいつも新しい。
子どもは、世界との折れ合いの付け方を
日々調整して生きているのですね。
「この絵本はこんな本だから、この読み方がふさわしい」
と外側から決められることではなく、
あなたと私の中でこの瞬間にどんなものが誕生するか、
どんな世界が見えるのかを感じながら作り合っていきたい。
それが「読み聞かせ」ではなく、「読み合い」
という主旨のご講演でした。
私は感動とともに、「これだ」と思いました。
国語の教科書に出てくる物語文を読解する力は、確かに大切です。
しかし、それだけでは何か違う、と私はずっと思っていました。
今回の講演で、その違和感の正体をついにつかんだ、という感じです。
先生が絵本を読まれると、同じ本でもまったく違う本のように
おもしろく感じるのが、魔法にさえ感じました。
先生は会話でも、相手の反応をよく見ておられるのを感じました。
その場、その瞬間に感じ取れるものを大切にされているのだなと。
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私を励ましてくださったのは、同じ職種の方々もそうですが、
実は親御さんもでした。
がんばってよかったと思いました。
親の会をもう何十年も支えてくださった方々が、
引退を公式に表明され、これからの親の会の方向性も話題になりました。
今後は、ことばの親の会だけで続けるのは、
時代の流れからみて難しい。
他の親の会等の団体と連携を深めることが必要だと指摘がありました。
きっとそうだろうなと、私も思いました。
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専門家だからとか、親だからとか、先生だから、とか、
確かに立場もあるし、考え方の違いもあるけれど、
その地下茎で確かにつながっているものがある。
何か引き合うものがある。
何か懐かしいものがある。
それらが立場の違いを超えて存在していることが感じられたとき、
私の心の傷は癒えていたのでした。
先生である前に、親である前に、専門家である前に、
この世で出会うことができた「人間同士」なんだなと。
今日は休日。
久しぶりに身体のメンテナンスを受けてきました。
数年ぶりに訪れたその場所では、先生が私の顔も見るなり、
「初めての人じゃないですよね」と。
私を覚えていてくれたのでした。
しかし、寝ている私の頭の方に座った先生は、ぼそっと一言。
「白髪増えましたね!」
がーん。
くやしいけどその通り。
年を取ったなあ。
「先生も、○○○ですね」、などとは言わなかったですが。(^.^;
久しぶりに会ったといえば、もうかなり前に通っていたお子さんの
お母さんに、最近何人も、立て続けに、偶然街で会いました。
偶然がよく重なるので、
私は何か振り返ることを運命は求めているのかな、
とさえ感じました。
「お久しぶりですね」
「お元気ですか」
「お子さんどうですか」
内容は書けませんが、それぞれの展開を見せているようです。
でも思ったことは、
当時のお子さんの姿は、当時の周辺の状況との関係性を
前提としているのだなあと。
時間がたち、子ども本人の成長による変化も当然ありますが、
生活の枠組み、前提自体が変わり、
関係の中で子どもも変わる部分がある。
周囲の本人への評価の観点も変わっていくでしょう。
当時できなかったことは、今となってはそれほどの
問題ではない、ということも多い。
逆もありますが、前者の方が多いかも。
そこで改めて思ったことをいくつか。
1 指導者は、その時だけを見ていてはいけない。
10年後、20年後の姿を思いながら。
2 できないことをつっつくよりも、できることを伸ばした方が
予後は、できないことをできることでカバーできるんだな。
3 そんなに焦らないで、もっとゆっくり考えてもいい。
最近、特別支援教育について、
集団への帰属に重きをおく文脈が
強まってきている感じがするのは、私だけでしょうか。
「もっとがんばれ、もっとがんばれ」
「さもないと、世の中についていけないよ」、と。
一面それは事実だし、世の中の流れを無視して教育はなり立たない。
ただ私は思うのです。
特別支援教育にしろ何にしろ、
すばらしい技術や理念、言い回しがあったとしても、
それを
「本人がどう感じるのか」
の視点が一番大事なのではないか、と。
訓練のための訓練。
それもいいのかもしれないけど、
その子のQOL(生活の質)を高めるために教育はある、
平たく言うと、
「本人がそれによって楽しいと感じるのかどうか」
なのではないかと。
「楽しい」、だけでなく
「感動した」とか、
「うれしい」とか、
「役に立った」とか。
確かに、本人がいやがっても、やらせなければならないことはあります。
ただ、将来身につけさせるべきかどうかという視点は、
単にお勉強の成績とか行動だけではなくて、
「楽しい日々の積み重ねによる、心の将来への投資」
という視点も大事なのでしょう。
将来の幸せが人生の一部なら、
「今」の幸せも人生の一部なのですから。
LDの心理的疑似体験プログラム。
確かに広く普及しましたが、
自戒を込めて言うなら、
「のど元すぎれば」なんとやら。
定期的に体験し直すのもいいかもしれないですね。
本人がどれだけ苦しんでいるのかを、「内側から」理解する。
この原点にもう一度立ち返る必要があるのでは。
最近、そんなことを感じるのです。
今年度、法律が少し変わっているので、載せます。
通級制、特別支援学級に関する法律、通達、通知(抜粋)
○教育基本法(2006年12月22日)
(教育の機会均等)
第四条
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
○学校教育法
第81条 幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び中等教育学校においては、次項各号のいずれかに該当する幼児、児童及び生徒その他教育上特別の支援を必要とする幼児、児童及び生徒に対し、文部科学大臣の定めるところにより、障害による学習上又は生活上の困難を克服するための教育を行うものとする。
2 小学校、中学校、高等学校及び中等教育学校には、次の各号のいずれかに該当する児童及び生徒のために、特別支援学級を置くことができる。
1.知的障害者
2.肢体不自由者
3.身体虚弱者
4.弱視者
5.難聴者
6.その他障害のある者で、特別支援学級において教育を行うことが適当なもの
○学校教育法施行規則(2008年4月1日施行)
第百四十一条 前条の規定により特別の教育課程による場合においては、校長は、児童又は生徒が、当該小学校、中学校又は中等教育学校の設置者の定めるところにより他の小学校、中学校、中等教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部若しくは中学部において受けた授業を、当該小学校若しくは中学校又は中等教育学校の前期課程において受けた当該特別の教育課程に係る授業とみなすことができる。
○「障害のある児童生徒の就学について(通知)」(平成14年)
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/14/07/020706.htm
○就学指導資料(補遺)(平成18年)〜宮城県教育庁HPから
http://www.pref.miyagi.jp/syougaiji/topic/data/syuugaku_10.pdf
○通級による指導の対象とすることが適当な自閉症者、情緒障害者、学習障害者又は注意欠陥多動性障害者に該当する児童生徒について(通知)(平成18年3月31日、文部科学省HP)
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/06050817.htm
○特別支援教育の推進について(通知)(平成19年4月1日、文部科学省HP)
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/07050101.htm
先に引用した「通級学級に関する調査研究協力者会議」(山口 薫座長)は、
通級担当教員の「専門性」について、以下のように答申しています。
(以下、引用)
(下線は、私が付加しました)
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3 教員の資質の向上
通級による指導が教育効果を上げるためには、何よりも担当教員の資質が重要である。通級による指導は、IIIで述べたように、限られた時間の中での1対 1の個別指導が中心であるため、担当教員は専門的な指導そのものの成果を問われることとなる。しかも、多くの場合、児童生徒は通常の学級の授業の一部を替えて、場合によっては遠くから保護者が付き添って来て、指導を受けており、それだけの教育効果を上げなければ、通級の意義そのものが問われることとなる。このため、専門的な知識、技能を有するとともに、個々の児童生徒の障害の状態や特性等を適切に把握し、それに応じた指導を行える力量を有する教員が担当することが望ましい。
しかしながら、通級の担当教員、特殊学級担当教員については、経験年数が少なく、専門性が十分ではない者がみられるということも指摘されている。今後、国、都道府県、市町村の各レベルで、専門性と個別指導の力量を養うための研修の充実を図ることが必要である。また、長期的には、教員養成においても適切な配慮が行われることが望ましい。
**************************(引用、終わり)