ハンドルネーム ya
某公立学校通級指導教室担当教員
言語聴覚士
特別支援教育士(S.E.N.S)
性別 男
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今年は体調管理と指導優先のため、会議には欠席していましたが、自分の相談ケースは欠席するわけにいきませんでした。
この日は、全部で10ケースの報告がありましたが、アセスメントがしっかりしている報告では、子どもや施設の状態像がありありと浮かんできました。
浮かんでいれば、もう支援の手立ては手中にあります。
そして、
できることを助言する。
できないことは言わない。
リアリズムに感銘を受けたのでした。
そして、毎年反省しても改善しない、「相談受理からケース会議まで何ヶ月もかかる」
これは致命的ですね。全国的にもそうでしょう。
だから、ケース会議を通してから助言するというのでなく、訪問したその日に助言するというスタンスをとっています。
ケース会議は判定の場ではなく、半分以上は事後報告の場です。
そのためには、訪問前のアセスメントを重視しなければなりません。
そして、訪問、相談から数ヶ月たってからのケース会議なので、会議直前に、「最近の様子」「助言後の変化」を電話等で尋ねています。
最新情報を会議に報告しなければ、ケース会議の意味はないのです。
特別支援学校の教育相談の巡回相談である「パートナーティチャー派遣事業」は、その点小回りがよくききます。
その代わり、各領域の専門家の意見を聞けないというのが難点です。
たとえば、特別支援学校の先生が、「構音」に関する相談を受けても、なかなか答えにくいでしょう。
専門家チーム会議では、ことばの教室担当(つまり私)も参加しているので、その点からの意見が言えます。
専門家チームは、各部局のエキスパートが集まるので、様々な専門性が集約されます。
子どもの誕生前から、就労まで。保育から、教育、療育、保健、福祉まで。
だから議論の中身はとても興味深い。
そこが長所。
だから、こうした専門性が発揮され、かつ小回りがきくようにするための工夫を現場レベルで進めています。
いずれにせよ、相談は、「アセスメント8割、助言2割」なのです。
この比率が逆になると、とんでもない助言になります。
そして自分の力を超える内容は、安易に助言しないこと。
わからないことは、わからない、この人を紹介します、と答えるべきなのです。
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休日にも仕事をするのは当然だと思っていました。
教師は聖職だから、子ども達のために身を投げ出すのは当然だと。
でも、家庭を持ち、難病を患い、人生の将来設計が大きく狂わされることになった今、自分の家族を養い続けることができるかさえ不透明な状態。
少子化にまっしぐらに進む日本。
その大きな原因の一つに、子育て支援を妨げる、労働時間の異常な長さがあげられています。
有能な女性の社会進出も、子育てしながら働ける環境の決定的な遅れが妨げになっている、と指摘されています。
夕食の世話をする保育園。
夜9時まで預かる児童館・・・。
子どもは帰宅したら寝るだけ。否、帰宅途中で寝ている・・・。
日本は、出勤時間は厳しいのに、退勤時間は守らない、時間の厳しさに矛盾がある国、とある先進国の方が言っていました。
何が正しくて何が正しくないのか、主義主張ではなく、その時々の現実を見据えた優先順位の判断が必要ではないでしょうか。
まさに社会のアセスメントが大切なのです。
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http://tokyold.web.fc2.com/ld_1992/index.html
以下、抜粋
さらに、通級は、通常の学級における授業の一部に替えて行わわれること、他校の児童生徒に対して放課後を中心として指導している場合があることなど、教育形態や担当教員の職務の形態が特殊であるため、学校内においても、これに対する理解が必ずしも十分に得られない場合があることが指摘されている。
通級による指導を効果的に行うためには、各学校において、校長が中心となって、一般教員の理解を深めるとともに、校内就学指導委員会の機能の充実や協力体制の整備を図る必要がある。また、担当教員の職務の形態の特殊性にかんがみ、担当教員について校務分掌などの面において適切な配慮がなされることが望ましい。
通級による指導が教育効果を上げるためには、何よりも担当教員の資質が重要である。通級による指導は、IIIで述べたように、限られた時間の中での1対 1の個別指導が中心であるため、担当教員は専門的な指導そのものの成果を問われることとなる。しかも、多くの場合、児童生徒は通常の学級の授業の一部を替えて、場合によっては遠くから保護者が付き添って来て、指導を受けており、それだけの教育効果を上げなければ、通級の意義そのものが問われることとなる。このため、専門的な知識、技能を有するとともに、個々の児童生徒の障害の状態や特性等を適切に把握し、それに応じた指導を行える力量を有する教員が担当することが望ましい。
しかしながら、通級の担当教員、特殊学級担当教員については、経験年数が少なく、専門性が十分ではない者がみられるということも指摘されている。今後、国、都道府県、市町村の各レベルで、専門性と個別指導の力量を養うため
の研修の充実を図ることが必要である。また、長期的には、教員養成においても適切な配慮が行われることが望ましい。
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小さい子どもの発話は、時としてその「ずれ感」がおもしろかったりします。
恐竜の絵カードを読んで欲しいというので、一つ一つ読んであげました。
「トリケラトプス」、「ブラキオサウルス」、「メガロサウルス」・・・
するとおもむろに、
「あのさ、アデノウィルスもあるしょ」
それは怖い恐竜ですねえ。はやっているからね。
「・・・ルス」の音が同じですね。
カテゴライズは違っていたけど、音の「照合」はできるのでしょう。
人は、人とのコミュニケーションの中でことばを獲得していきます。
中川 信子先生の「ことばのビル」をあげるまでもなく、「ことば」は様々な経験の最上階に位置します。
だから、ことばの意味を「お勉強」するだけで、それを獲得するわけではない。
ただ、こどもによっては、同じ経験をしているのに、ことばの意味理解が苦手な場合もあります。
一つ一つの経験を抽象化したり、逆に抽象的で難しいことばを使えても、その意味理解は表面的だったりします。
環境を構造化してあげることで、ことばの意味理解を獲得する子もいます。
ことばの教室での「自立活動」は重要だなと。
通常なら、日常生活の中で獲得する「意味理解」であっても、「短い」と「小さい」との違いを様々な例を挙げてわかりやすく教えてあげることが必要な子もいます。
ちなみに「短い、長い」と「大きい」「小さい」の概念は、通常の発達では未就学の段階で獲得します。
「短い」という漢字は小学校3年生で出てきますが、その段階で「短い」の意味がわかっていないと、漢字を教えても覚えにくいでしょう。
大学教授で、自閉症の当事者のテンプル・グランディンは、「犬」ということばを聞くと、「イヌ」という抽象化された概念で考えるのではなく、それまでに出会った犬のイメージを次々思い出して考える、という主旨をおっしゃっています。
具体→抽象、抽象→具体
が苦手な子には、視覚支援などを通じて、ことばの意味の多義性を教える必要があるでしょう。
「読む」「書く」よりも「聞く」「話す」がまずできているのか。
大事な視点です。
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「通常の学級に在籍する発達障害の可能性のある特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査結果について」
平成24年12月5日
文部科学省初等中等教育局特別支援教育課
理論上、「正規分布」では、68%の人は、「標準」の範囲内に収まっています。
つまり、30人クラスの中で、20名程度は、標準の範囲内なわけです。
もちろん、たとえばLDは、知能検査に比べて、特定の能力に遅れがある場合ですから、IQだけで判断はできませんが、少なくとも、子ども達全員に「認知特性」があるわけではない。
一方、「6.5%」の支援の必要と思われる子のうち4割は、支援を受けられていないという実態。
「教育の機会均等」の意味を考えてしまいます。
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という主張があるということも、知っておくことが大切と思います。
「RTI」です。
個別的な知能検査ばかりか、学力検査も必要がないと主張。
まずは通常の教え方をしてみて、反応がなければ、カリキュラムを変えてみて、それでもだめなら個別的な支援を行う、というもの。
知能検査の結果と、学力検査との間に差異(ディスクレパンシー)があることが、LDの定義なわけですが、そのこと自体も批判するし、IQも含めての異議申し立てなわけです。
こうした考え方に触れることで、逆に知能検査の意味、子どもをどう理解するかという原点を振り返るきっかけになるのではないでしょうか。
知能検査をあまりにも重視して、本当に子どもの力を反映しているのかという視点がおろそかになってはいけないでしょう。
逆に、全く否定してしまえば、その子がなぜつまずいているのか、どのような手だてをとったらいいのか、の客観的な理解、判断が難しくなります。
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ご相談のトップに出てくる質問です。
「子どもによって違うと思いますが」が前提として。
「子どもによって違うと思いますが、何回練習したらいいんですか?」
このことばは、逆なのでした。
「何回練習したらいいかは、子どもによって違います」
ことば遊びのようですが、これが実際です。
だから私は、その質問に答える前に、その子のことについて深く尋ねます。
その結果、今の「練習回数」は間違いではないでしょうという話になったり、「その練習以前に・・・」など、回数以前の話しになったり。
だから、子どもの状態像に迫らないままに、「30回ぐらいが適量でしょう」と即答する支援者は、偽物です。
子どもの状態像をどう評価したらいいのか、という視点を提供することこそ、本当の助言ではないでしょうか。そうでなければ、指導者が自分の目で見て考える力を奪うことになります。
「正解」を伝えることだけが助言ではなくて、子どもをどう見たらいいのかという視点を提供するのが助言です。
子どもの易疲労性、やる気度、注意集中、全般的な知能水準や認知特性、運動巧緻性、器質的、機能的条件などから判断して、仮説を立ててとりあえずやってみます。そして子どもの反応を見ながら加減していきます。
お医者さんが薬を処方するときも、少量から初めて、反応を見ながら増量、加減していくわけです。
下限量というのはあるでしょうけれども、薬(練習法)自体を変える場合、組み合わせを変える場合もありますね。だから回数だけを議論するというのは、不毛以外の何物でもありません。
ほとんど着席もできない子が、一回でも練習したら、それは大成功ではないでしょうか。
何十回も練習しても改善が見られないなら、それは練習「量」ではなく、練習の「質」の問題ではないでしょうか。
一つ言えることは、たくさんの量を練習させてみたいなら、「小分け」にしてみること。
5回言えたら、カードを一枚、とするだけで、カードが5枚貯まる時には25回練習したことになります。
そして「裏返したこのトランプの中に、ババはあるか、ないか」という当てっこにするだけで、練習は見違えるほど楽しくなります。
もうひとつ、質問をして下さるということは、それだけ一生懸命な方であるということ。
ぜひ、質の高い研修機会を保障してさしあげたい、と思うのです。
私は親に甘えた記憶がほとんどありません。
私が生まれるまで、母はひどいつわりで食事も全くとれず、栄養点滴も受け付けなかったそうです。
生まれてみて、初めて双子だとわかったぐらい、2人は体重が少なかったのです。
私は2500g、もう一人の女の子は1500gで、女の子は誕生直後に亡くなりました。
私が生まれた時の産声は、とても弱々しかったそうです。
その後も、母は「だっこ」することの恐怖心から、ほとんどだっこできなかったそうです。
栄養不良と、生来のもの?が絡み合い、私の頸がすわったのがなんと12ヶ月。一語文は2歳半ぐらいだったそうです。
私の幼少期の写真を見たある方は、どの写真にも「笑顔がない」と言っていました。そう、いつも恐怖心と不安がありました。親は恐怖の存在でした。というか、人に対しての恐怖がありました。
幼い頃に甘えた経験を積んでおかないと、思春期以降、困ることになる場合があります。実際、私は精神的にとても苦労しました。思春期はみんなだれでも苦労しますが、そのレベルではありません。念のため。
「自立」というのは、どこかで誰かが守ってくれているという感覚、経験の積み上げがあるからこそできることです。
「甘えたい」が、ある程度年齢が上がってから起きることもあります。
または全く別の形に表れることもあります。
甘やかすこととは違います。
子どもが親に気持ちをわかってくれるという経験の積み上げによって、人の気持ちを理解できるようになるのでしょう。
気持ちを受けとめてもらえずに、気持ちを否定され、行動面の叱責ばかり受けて育った子は、大人になってからも、人の気持ちを理解できないでしょう。本当は感じていたとしても、否定してしまう。その行動の背景を理解しようとする姿勢ができていかない。だから、「良いか悪いか」という二元的な価値に埋没してしまう。
不適切な行動があるなら、なぜそうした行動をとったのか、その心情の理解によって、対応ががらりと変わることもあります。
今の仕事は、本当に天から与えられたものと思っています。
大切なことを教えてくれました。
自分を救ってくれました。
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久しぶりに構音指導について。
よく「○○」の発音がうまくできないので、指導をどうしたらよいかという相談を受けます。
中には、同じ子どもの発音について、関係者によって「○○の音は出せる」「出せない」と見解の相違が見られることもあります。
「どのレベルまで正音なのか」の精査がされていないので、見解がずれてしまうのです。
つまり、単音節では正音が出せるが、会話ではまだなのかもしれない。
ある先生は「○の音が上達している」と評価しても、保護者や他の先生は、会話しか聞いていないので、変化に気づけないということがおこります。
発音の練習には段階があります。
単音→単音節→無意味音節(非語)→単語(有意味語)→短文→会話
どの音がどの段階まで正音が確実なのか、どの段階でつまずいているのかを評価しなければなりません。
その評価があって、初めて指導の手立ては出てきます。
そして障害音だけでなく、音の全体を聞いた中で、指導の順序を検討する必要があります。
段階とか順序というだけでも、これだけのアセスメントが必要です。
それ以外にも、音韻分析機能や発語器官の形態や機能、知的発達、認知発達、コミュニケーション、生育歴情報など様々な情報があって、初めて指導の手立てが検討されるのです。
一般論、当てずっぽうのアドバイスで、子どもが不利益を被ることがあってはなりません。
特に構音指導は、やり方を一つ間違えると、取り返しの付かない事態に陥ることがあります。
コンビニエンス的に、このプログラムをやれば構音が改善する、というのは危険です。
「生兵法は怪我のもと」
「触らぬ神にたたりなし」
なのです。
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自閉症の原因論としては、まず
親の愛情不足が原因であるという説が出てきました。
しかし統計的には、育て方が原因だという証拠は完全否定され、親の関わりの薄さは、原因ではなく、むしろ結果であるということがわかってきました。
その後、言語・認知の遅れが自閉症の原因だという「言語・認知障害説」がラターによって唱えられました。
しかし、「ことばに遅れのない自閉症」の存在が明らかになってきました。それが、アスペルガータイプでした。
よって、「言語・認知障害説」も否定されることになりました。
そのあと、2,000年代に入り、バロン=コーエンらが、「心の理論」の説を唱えました。
「サリー・アン課題」など、他者視点に立てるかということを測るもの?が出てきました。
しかしこれも、知的に高い自閉症では、問題が解けることも多いことがわかり、「心の理論」自体が怪しいのではと言われるようになりました。
脳の研究が進んでくると、「ミラーニューロン説」が出てきました。
たとえば、コップの水を飲んでいる人を見ると、その見た人の脳の特定部位にも、鏡のように反応が現れる。
自閉症にはミラーニューロンがないから、他者の気持ちがわからないのだと。
しかし、ミラーニューロンは、それが原因なのか、結果なのか。
脳科学は、仮説の域をまだまだ出ません。
一方、社会性、コミュニケーション、想像性の困難の3つ組みとして、その現れ方は個々に異なる連続性があるものであり、カナー型やアスペルガー型も包摂した広い概念として、ローナ・ウィングが「自閉症スペクトラム障害」を提唱していました。
そしてそれは、アメリカ精神医学会の「DSM-5」に採用されることになりました。
「自閉症スペクトラム障害」の概念は、福祉などの行政上の使い方に課題があるようですが、自閉症を広い概念として、連続性のあるものとしてとらえたのは、とても実際的であると思います。
よく「この子は社交的だから、自閉症ではない」と言われますが、「社交性はあっても、社会性が苦手」ということもあります。
そこに自閉的傾向を見ることができるかどうかで、支援の方向性は変わっていくでしょう。
発達障害は定義上、環境が原因ではないのだけれど、環境が「助長因子」になる場合もあります。
睡眠と生活リズムについて、東京都教育委員会がまとめた資料があります。
【指導用スライド教材】
http://www.nyuyoji-kyoiku-tokyo.jp/download_other_front.cfm
もちろん、「早く寝なさい」と言ってすぐ寝るならよいけれど、なかなか育てにくさがあるのが発達障害のある子なわけで。
生活リズムを整えるということ自体が難しいことかもしれませんし、睡眠に困難のある子もいます。
また、障害の有無にかかわらず、夜遅くまでゲームをしているとすれば、それは日中の生活へのストレスに対する現実逃避の可能性もあるし、習い事で遅くなることもあるし、家族間の軋轢があるからかもしれない。生活リズムを整えるためには、それを妨げている様々な関係性を見ていかないといけないわけです。
ただ、それでなくても感情のコントロールが難しいお子さんの場合、夜更かしや朝食抜きで登校することで、感情の制御がより難しくなる可能性があることも事実。朝食を採ってこないと、脳の唯一の栄養源であるブドウ糖が行き渡らないので、読み書き計算に影響することも十分考えられます。障害があろうとなかろうと、それぞれの持っている能力を発揮しにくくなるわけです。
だからアセスメントには、そのような情報も是非いれることが大切です。
アメリカでは、生活リズムなど他の要因の可能性を検討するスタッフがまず調べて、その要因が除外されて、そして最後にLDの診断をするドクターが登場する、と聞いたことがあります。
知能検査のわりには、学力がとても落ちているディスクレパンシーモデルがLDなわけですが、学力が落ちているからすぐLDだとか、ディスレキシアとか、多動だからADHDとか言ってはいけないのです。
詳しくは書けませんが、ADHDの事例のところを読むと、なるほどそうやって解釈するのだと思いました。
ただアメリカでは、他にも様々な検査法が充実していて、それとのバッテリー(組み合わせ)で判断できるので、より正確にできるのだと思いました。
いずれにせよ、「検査したら、何か障害名がわかるかも」というのは、あまり当たらないでしょう。
むしろ、検査によって、当初考えられたいくつかの障害名を除外していって、残ったものを採用するというイメージの方が近いのでは。
WISC-4の知能モデルである「言語理解」「知覚推理」「ワーキングメモリ」「処理速度」は、WISC-3の知能モデルと比べたら、やはり大きな進歩をしていますね。測っている能力の「純度」があがっていると思います。
WISC-4は、3に比べて、より「流動性知能」に重点が置かて「結晶性知能」が減ったとか、「絵画配列」がなくなって残念という話を聞きますが、新しい知能の考え方を検討すると、その方向性は妥当だろうと思うのでした。
特別支援教育士の養成カリキュラムで登場しない知能検査があります。
理論編を読むほど、知能を測る検査の信頼性というものに、思いを巡らせます。
検査はやり方だけでなく、背景理論なり、学術的な部分もちゃんと理解しなければ、と改めて感じています。
WISC-4では、知能の最新モデルである「CHCモデル」との相関が高いことが、因子分析により証明されています。
我が国の知能の考え方が、世界スタンダードになっているのか、これからも勉強が必要ですね。
「全般的な知能水準」が行政上は使えても、教育的な手立てとして使うには・・・、やはり複数の検査を組み合わせるとか、行動観察、生育歴等の情報は大事ですね。
梅干しの苦手な子に、「これは梅干しだよ」と認識させたら余計に食べないですね。
認識→嫌悪感 のループに陥って、ますます嫌いになります。
私なら、海苔巻きの中にこそっと入れておいて、普通に食べたら、
「梅干しが入っていたんだよ。食べられて偉いね」とほめます。
本人にも成功体験になります。
「だましてはいけない」という「道徳的」?な価値観で、手段を評価することは、子どもにとっての最終利益から外れた行為だと思うのです。
これは、構音指導でも、他の指導でも同じことです。
本人にしっかり認識させてから始めた方がよい場合と、「いつのまに」獲得していくようにする場合と。
概して、「はっきり認識させてから」は、大人の価値観が入り込んでしまって、子どもの「今、ここ」を否定することにつながりかねない危険性を有していると言えます。
練習すればするほど、今を否定されるわけですから、本人も練習意欲や、へたをすると発話意欲も低下させます。
初めから「シの音が出せるようにがんばろうね」は、本人が自覚してきて、なおかつ改善意欲が予めある場合に限られる方法でしょう。
ある程度、単音節で「シ」音が出るようになってから、「実はそれ本当の・・・」と教えた方が良いのです。
手段それ自体の近視眼的な価値観ではなく、子どもにとって利益となるか、戦略的に考えることが重要なのです。
長期休業後に子ども達と久しぶりに出会うと、親御さんも気づかない変化にこちらが気づくことがあります。
たくましくなっていた子、休み中の生活との「時差」で、ちょっとお疲れ気味の子、顔が少しふくよかになった子など様々。
1ヶ月弱会わないわけですから(北海道の冬休みは25日ぐらいあります)、私は広く浅くアセスメントをやり直します。
自由会話はおおむねどの子にも、冬休み明けでなくてもまず行っています。
自由会話が成立しているから、言語発達に問題はない、という判断は誤りです。
1)会話しながら、
・意味(ことばの意味理解)
・音韻(発音、音韻の聞き分け)
・統語(文法)
・語用(文脈に沿った言語理解、表現)
を見ていきます。
2)「いつ」とか「どこで」「どうして」などの発問に対する反応を見ます。
また、休み中の本人の暮らし、家族状況を理解するのにも会話は大切です。
もちろん詰問調になってはならず、共感的に楽しく接するよう心がけています。
3)構音の再評価を行います。
→「自然改善の音」があったり、「元に戻っている音」もあります。音全体を改めて評価し直して、指導計画を立て直すこともあります。元に戻っている音では、被刺激性はどうかを見ます。休み前の練習が記憶(運動的にも音韻的にも)されていれば、正音を聞かせることで思い出すこともあります。
4)吃音では、会話をまずしながら状態を見ていきます。フランクに症状について話せる子とは、休み中はどうだったかを尋ねてみます。学校のある時と、ない時とでは、症状に差がないかを見ていきます。
5)情緒障害の場合は、来室時の様子、雰囲気の観察から始め、やはり会話の中から様々なことを感じ取ります。
6)難聴のあるお子さんの場合、会話しながら、語音の通じにくさや、言語発達の状況を見ていきます。聞こえの状況によっては、親御さんに報告して、補聴器をつけている場合は、補聴器の調整を含めた対応が必要になることもあります。
今年の場合は「ことばを作ろうゲーム」や、「すごろく」など、自由度が高く、拡散的な問いに答える課題を併用しています。
親御さんには、休み中の様子をうかがうことが多いです。
1,2週間したら、学級担任の先生とコンタクトをとり、変化がないかどうかを尋ねます。
こうして、個別の場と全体の場、家庭状況などの情報から、総合的に判断し、支援の方向性や手だてを調整します。
脳科学を応用すると、学習指導にも役立つという論調があります。
脳のこの部位が活性化したからどうだとか。
最近は下火ですが、そもそも、脳科学というのは再現性が難しく、科学的根拠としてどうなのかというのが本当のようです。
新しいものよりも、100年前に発表された「エビングハウスの忘却曲線」の方がはるかに科学的ですし、シミを見て何がわかる、と言われたロールシャッハだって、膨大な統計に基づいて解釈されているわけで、脳科学よりも、昔からの心理学の方が、はるかに科学的だったりします。
自閉症の原因とされるミラーニューロンだって、怪しいという説があります。
鬱病に効くSSRIという種類のお薬は、選択的にセロトニンを再取り込みさせないことで、セロトニンを次のシナプスに伝える量が増やせるから効くと言われますが、他の睡眠薬などは30分で効き始めるのに、なぜ鬱病だけは数週間もかかるのか。
実は、再取り込みを阻害しているのではなくて、セロトニンを受け取るレセプターの短くなった繊維が、薬によって長さを回復するからだとの説があるようです。
仮説が短い期間に次々と変わるのを見ると、やはり信頼できるのかなあということ。
脳のこの部分が活性化しましたという画像があっても、それが本当に、その運動をしたからなのか、実はあやしい。
そして、自分で新しい説を発見したと思っても、世界中を探せば、必ず似たような先行研究がある。
日本に知れ渡っている論文はほんの一部で、世界中には膨大な論文が出ては消滅していると言うことを知っておいて損はないでしょう。
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社会に出て、困るだろうことは、
自分で自分のことを理解できないために、
1 自分の能力以上のことをしようとして挫折する
2 自分を棚にあげて、人を非難する
3 上から目線の物言い
などによって、人とうまくいかないこと。
自己理解は、障害の有無にかかわらず、一番大事だと思うのです。
文字が書けなくたって、パソコンで文字が印刷できる。
筆順が間違っていたって、同じ誤り方で固定していればそれでいい。
意味がわからないことばがあったって、google検索すれば出てくる。
だから書けなくても、まず読めればいい。
たくさんの漢字が書けなくても、履歴書が書ければいいかもしれない。
でも、自己理解が弱いと、あらゆる場面で失敗体験を積むことになるのです。
失敗してもその理由がつかめない。
今、小学校の通級指導で一番大事なことは何か。
長い目で見つめていきたいです。
目先の成果に心を奪われるのではなくて。
財務省は、成果を上げろと言っているみたいですけどね。
昔ながらのことばの教室が、そのことを一番大事にしてきたなあと。
通級指導は、最大週8時間のうち、最低1時間は、「教科の補充指導」ではなく、
コミュニケーション等の「自立活動」にしなさい、文部科学省は言っています。
でもそれは、決まり事だから、というよりも、はるかに深い意味があると思うのです。
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