ハンドルネーム ya
某公立学校通級指導教室担当教員
言語聴覚士
特別支援教育士(S.E.N.S)
性別 男
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触発されて、安いタブレットを購入してしまいました。
未だにガラケーを使用している私にとって、アンドロイドも初体験。
MS-DOSがWindowsにとって代わった時代と同じぐらいの衝撃です。
アプリの豊富なこと・・・。
ただ、おもちゃとしてはかなり使えますが、子どもに合わせた指導に使えるかとなると・・・。
(無料のアプリしか見ていないからかもしれませんが)
子どもの状態にフィットさせるには、アナログの紙媒体、実物に勝るものはありませんね。
しかも、このタブレットはWi-Fi接続のみで、3Gはついていないので、学校ではつながりません。(3G=つまりスマホ回線につなぐお金もないので。)だから、自宅のネット環境で無料アプリをインストールです。
画面は7インチなので、視機能の育成、というわけにもいかないでしょう。
(視機能を育てるには、一定の画面サイズが必要)
でも、支援の選択肢の一つになり得ることは間違いないです。
今後、活用する場面が出てくるでしょう。
スマホをお使いの方々は、フェイスブックやツイッター、ミクシーなどもお手軽にアクセスできるのですね。
残念ながら、このタブレットでは、このブログの更新はやりにくいし、スペックが足りないようです。
将来は、ブログを閉じて、別の世界に行っているかもしれません。
私だけでなく、皆さんも。
時代の変化は速いですら。
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「文字の学習はあとでいいなんて大間違いだ。文字がわからなければ、学習についていけない。学校は文字による学習がほとんどなのだから」
という方がいます。
確かにその通りかもしれません。
しかし、たとえば3歳児に、ひらがなを一生懸命教えるのは妥当なのでしょうか?
英才教育をやるならともかく、音韻分析機能が、4歳レベルに達していない子どもに、文字を読ませる指導、発音の指導を一生懸命やって、はたして成果があがるのでしょうか?
子どもは成功体験や、学ぶ喜びを積みあげられるのでしょうか?
「○年生なんだから、文字がわからないと困る。今まで何をしてきたのか」
なんて言われますが、そもそも特別支援教育は、その子の育ちに合わせるためにあるのでしょう。
文字が読めないなら、絵で見せればいい。経験を積めばいい。心理検査で明らかになった得意な入り方を取り入れた指導を考えればいい。
文字の学習の前に、音韻表象、言語概念、視知覚というレディネスは育っているのでしょうか?
そうした個別の支援ができるのが、特別支援学級であり、通級指導教室であり、自立活動なわけです。
そうした特別の場が、子どもの実態を無視しして、「学年相応」の勉強の場となるならば、本来の目的から逸脱していると言わなければなりません。
一人一人、育ちのペースは違います。その違いに合わせるのが特別支援教育のはずです。
子どもの実態を無視して、みんなに合わせる、みんなに追いつくように強いることが、子どもの学校生活を豊かにするのでしょうか?
何年生だから、ここまでできるようにさせなければいけない、という発想自体が、「悪意のない差別」なのかなと。
そうではなくて、「その子にとっての一歩だけ先」を提供するのが特別支援教育でしょう。
今回の講座では、2本のケースレポートの検討を行いましたが、それぞれの力はだいたい何歳レベルなのかという見立てをするための資料を提供させていただきました。
それは音韻分析能力であり、視知覚、視機能であり、言語概念の発達などについてでした。
言語発達は、「音韻論」、「意味論」、「統語論」、「語用論」の4つの視点で見ること。その4つの視点の具体例を示させて頂きました。
結果、詳細な説明は1時間半ではとてもたりず、「音韻論」だけで終わってしまいました。
子ども言語発達の理解を取り上げるだけでも、何時間も必要です。
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通級担当経験が36年という超大物の先生をお呼びすることができました。
私たちことばの教室担当の強みは、こうした横のつながりがあることなのです。
そして午前中は講義、午後から演習とケース会議、という組み合わせは、黄金の比率です。
感想アンケートをみてもそう思いました。
「知識を授けられる場」と、「話し合う場」をバランスよく配合することが、研修会を企画する側にとっての責任なのです。
さて、講師の先生からは、言語障害教育の概要についての講演をしていただきました。
事前の打ち合わせは全くなく、先生のお考えにお任せしていたのですが、新しい先生へ伝えなければならないことは、普遍的に同じなのでしょう。ズバリの内容をお話してくださったように思いました。
以下、私のメモです。
***
・指導プログラムを子どもに降ろすのではなく、子どもに合ったプログラムを組み手立てるのが言語障害教育。そのままでなくアレンジすること。
・サイエンスを学ぶのは、子どもを「治す」ためではなく、「指導の間違い」をしないため。
・「指導計画」を見直すことは多いが、「子ども理解」まで掘り下げて見直すことが大切
・「問題の仮説」ではなく、「子ども理解の仮説」
・「受容、共感」は通過点であって、指導目標ではない。方針である。
***
お話の内容は、教材紹介などの具体的なお話は一切なく、本当に概論でした。
「明日の指導を教えて欲しい」というニーズに対して、妥協しやすい私は、ついつい教材紹介に手をつけてしまいます。
しかしそれでは、子どもの実態を見ずに、紹介されたとおりに教材を使ってしまうことにつながります。
子どもをどう見たらいいのか、という力は育たない。
だから、うまくいかない。
うまくいかないから、長く担当する気持ちになれないわけです。
また、指導計画を見直すだけでは、本当に子どもにフィットした指導は作れません。
子ども理解にまで落とし込んで見直すことが大切です。
その指導計画自体が、子どもに合っているのか、子どもはどんな力をどのように持っているのか、周囲の環境との関係性は、生まれてから今までにどのようなおいたちを経てきたのか、の理解がなければ、「計画」は上滑りしてしまいます。
そのためには、子どもをどのような視点で見たらいいのかという専門的知識、そして情報収集がなければなりません。
「指導の間違い」が起こるのは、子どもをよく見ていないことと、専門的知識が不足しているからなのです。
個別の指導計画を持ち寄る研修会をやっている団体がありますが、子ども理解をとばしているなら、研修としての意味に疑問を感じます。
子どもの詳細がわからずして、どうして、「この目標、手立ては良い、悪い」の議論ができるのでしょうか。
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会話に「名前(題、タイトル)をつける」という教材がマイブームです。
会話の内容を端的に単語一つか二つで表現できるということは、会話の文脈を理解したということです。
内容の枝葉末節にとらわれていると(つまりシングルフォーカスだと)、会話の内容の部分的にしか適合しない単語になります。
たとえば、(以下、私のオリジナル)
***
A君「明日は運動会だ。徒競走も楽しみだ」
B君「楽しみじゃないな」
A君「どうして?」
B君「だって、耳が痛くなるんだもん」
A君「どうして耳が痛くなるの?」
B君「スピーカーからの音だと、耳に響いちゃうんだ」
A君「どうして耳に響いちゃうの? 俺は平気だけど」
B君「実は僕は耳の病気なんだ。なかなか治らないの」
A君「そうなんだ。それは気の毒だね。どうすればいいの?」
B君「耳が痛いときは、耳栓をすればいいんだよ。今回、放送係からはずれて助かったよ。」
さて、この会話にタイトルをつけましょう。
わからないときは、下から選んでね。
1 運動会で楽しみなこと
2 耳
3 スピーカ
4 放送係
5 徒競走
***
会話の流れから、1,5は選択肢から除外されます。
もし、1,5を選択した場合は、運動会の内容、楽しみなこと、耳のことに色分けして会話にアンダーラインを引き、どの内容が一番話されているかを視覚的にわかりやすくします。
3も、当たらず遠からず。「2 耳」と比較すれば、B君の言いたことの主旨は、どちらが近いか考えられます。
4は微妙ですが、なぜ放送係を選んだかの理由を尋ねるとよいのでしょう。
耳の病気の話や、運動会の係の仕事の話は、経験的知識も関わるので難しいですが、そのことを差し引けば、低学年でも理解できるしょう。
文の読み能力とは、こうした文脈理解、主旨理解、部分と全体との関係などの理解と切り離しては考えられないでしょう。
そして、日常の会話、コミュニケーションでも、こうした主旨理解の能力が必要です。
会話では、キーワードがたくさん出てきます。
しかし、どのキーワードが会話の主旨かは、上記のように、消去法で考える、ということを日常、人は自然にやっているのでしょう。
それが難しい子がいる、という理解がまた大切だと思います。
ついでに言えば、上記会話から、2人の日常の関係性が推理できます。
耳の話を初めてA君にしたこと。
少なくとも、自分の病気を話せる関係であること。
でも、運動会前日までそうした会話にはならなかったことから、普段はあまり会話していないか、友達になってそんなに期間が長くないかもしれない。練習時から、耳のことで困っていると言うことを少なくともA君は知らなかっただろうこと。
などなど。
このレベルは、中~高学年でしょうか。
こうした推理も、通常、人は無意識にやっているわけです。
無意識だからこそ、支援者はそれらを意識化して、子どもの行動の「ホワイ」を追究する必要があるのでしょう。
無意識の意識化、は実はとても大事だと思います。
なぜ自分はそれができるのか、という支援者自身の課題分析力、自己モニター力が必要です。
子どもには、日常では会話の主旨を端的に説明してあげたり(それこそ名前をつけてあげたり)、通級での個別指導の場では、名前を付ける主旨理解の学習(自立活動としても、教科の補充指導としても)が考えられます。
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「言語発達遅滞の理解と指導」という題で、公的講座でのお話の準備中です。
1時間30分のうち、1時間を説明にあて、残り30分を質疑応答に、と構想中です。
言語発達遅滞をどのように評価するか、という話だけでも、いくつもの知能モデルや、生育歴などの子どもの発達の見方についての知識が必要なわけですから、1時間と言っても、本当にダイジェストなお話になります。
新しい先生向けの参考文献では、国立特別支援教育総合研究所発行の『言語障害教育における指導の内容・方法・評価に関する研究』(H22)が筆頭でしょう。
その他、手堅いところでは『言語聴覚療法シリーズ 言語発達障害1,2,3』(建帛社)あたりでしょうか。
『特別支援教育の理論と実践』金剛出版
も、「聞く」「話す」のつまづきや、発達についてよくまとめられています。
いずれにせよ、言語発達遅滞を論じる上で触れなくてはならないのは、今報道もされている「アスペルガー障害」「自閉症スペクトラム障害」でしょう。この説明だけでも、新しく担当した先生にわかりやすくするには、最低、30分~1時間は欲しいところですが、割愛して触れていく予定です。
ところで、「アスペルガー障害」と診断された多くの方が、新しい「自閉症スペクトラム障害=ASD」では基準を満たさないとの報道があるようです。
ただ、もともと、アスペルガー障害をも包摂する概念が「ASD」だったのではないかと思うのですが。
このあたり、デリケートな問題ではあります。
診断の運用のあり方が本人、周囲にとってプラスになるようにと期待します。
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通常ではあり得ないことや、めずらしいことを写真にしてアップしているページです。
マスコミでは、ツイッターでの使い方に問題があってという報道がされていますが。
ツイッター以外では稼働中のところもあり、私はその内容を教材化しています。
大人の内容が多いので、全てが使えるわけではありませんが。
たとえば、
給食の献立表で、
「ぎゅうにゅう」、「ハム」などと書かれている横に、
「クラスメイト」
と書かれているのを発見するを楽しめます。
学校行事予定表で
「卒業式」と書くべきところを
「失業式」
と書いてある写真もあります。
お店の通常価格より、特売価格の方が値段が高い表示も使えそうです。
・おかしなところを発見し、その内容をことばで説明できるようにする
・日常生活に近い数的な感覚を育てる
・一般的な経験的知識の参照や教示
などもねらいとしつつ、指導の導入時のお笑い、「つかみ」として使うことがあります。
某県の幼児のことばの教室の先生から、プレゼントを贈ってくださいました。
百均の「洗濯ばさみ」です。
おしゃれな形ですね。
これを組み合わせてシールを貼ると、かわいらしいチョウチョに。
並べてドミノ倒しです。
洗濯ばさみのバネの力がほどよく強いので、握力を育てるのにもいいですし、ドミノにすれば手先の巧緻性を育てることにも。
シールをはがして、貼ってという作業も手先の力ですね。
シールを貼るだけでこんなにおしゃれになるというのは、私には全くないセンスなので、普段私とつきあっている子ども達も新鮮に感じたことでしょう。
幼児から低学年向けと思いますが、ムーブメント遊びにも使えるし、高齢者デイケアでも、この教材は活躍しているとのこと。デイケアでは、様々な形に組み合わせて楽しんでいるようです。
汎用性が高く、かわいらしいアイデアをありがとうございました!
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先日の研修会では、担当2年目の先生の事例発表がすばらしかったです。
1 子どもの実態、反応を見ながら、指導方法を柔軟に立て直している。
2 構音指導では視覚的な支援を多用し、「音の渡り」が子どもにもわかりやすい。
3 構音や口腔機能についての基礎知識がしっかりしている。
4 生育歴情報等の情報収集がしっかりしている。(ただし、学級担任からの情報収集や検査結果の解釈には課題がありました。でもこれは、経験の長い先生にも課題とするところであり、本当はそこにターゲットを当てた研修システムの確立が、支援者のニーズなわけですが)
とても2年目とは思えない質の高い発表でした。
明らかに、1年間の教室内での研修の積み上げがあると感じました。
この教室では、比較的安定した人事を背景とし、経験の長い先生を中心に、学術的根拠に基づく質の高い研修に熱心に取り組んでいました。
だから、新しい先生は、子どもの構音の着実な進歩を経験できるわけです。
機能性構音障害は、きちんとしたアセスメントと基礎知識、子どもを見るセンスがあれば、確実に改善するものです。
卒業まで改善しないままだとすれば、指導に問題があるのです。
記録の取り方だとか、お手紙の書き方などという枝葉末節なところにこだわるのでなく、子どもの利益を最優先に考えた研修内容を組み立てて欲しいものです。
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当地方の言語の研究協議団体の総会、研修会がありました。
総会では、道言協(北海道言語障害児教育研究協議会)の「言難ABC」(新しい先生向けの研修会)への参加旅費の補助を向こう5年間措置する会計予算案、および、地域の経験の長い先生の指導を参観したり、話を聞きに行くための旅費を向こう5年間補助する会計予算案が原案通り可決しました。
また、これまでこのブログでも何度も取り上げた「自主研修会」を会の正式な動きとするための会則改正案も可決しました。
これにより、新しい先生の研修支援のための「予算の矢」、「場の矢」の2本が放たれたことになります。
最後の一本の「矢」を放つのは、ハードルが高いのですが、何とか合計「3本の矢」として実現したいところです。
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私の所属する学校には、「院内学級」があります。
近くの総合病院に出向いていって、院内に設置されている学級で、入院中の児童と出会います。
久しぶりに補欠授業を頼まれて、もう一人の先生と行ってきました。
通常学級での教科指導の経験豊富な先生の1対1の授業は、子どもの学習能力のアセスメント、推理がすばらしく、どこでつまずいたかを超スピード、超正確に判断、直ちに手立てが出てきて、私は足下にも及ばない気持ちでした。
餅は餅屋です。
通級担当の立ち位置は、やはり勉強でなく、自立活動だなあと感じた瞬間でした。
ところで、院内学級の補欠授業と言えば、様々な思い出があります。
10年を振り返ると、歩行困難なお子さんがとても多かったです。
あれだけ関わりが難しく、手を焼いたのに、病気が治り、院内を自分の脚で歩けるようになって、それまで見たことがないような満面の笑顔、生きる喜びの表情を見せ、とても素敵な関わりを最後に退級したお子さんもいました。
看護師さんや看護実習生さんも同室して、楽しくゲームをしたこともありました。
長い入院生活になるほど、お子さんの心理的な負担は強まり、行動にも出てしまうのです。
退級時の満面の笑顔を見たとき、入院中にいかに心を励まし、信じ続けるかが大事かを思い知らされました。
院内学級って、こんなに素敵で、やりがいのある仕事なんだなあと。
テレビ番組でもやっていたようですが、現実もドラマチックなのです。
機会があれば、ずっとやってみたいとも思いました。
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聴力が安定し始めた?ため、点滴の頻度を減らし始めています。
それで、点滴を受けに病院を訪れると、看護師さんに
「ちゃんと眠れていますか?」
とか、
「ストレスが多いですか?」
と親身に尋ねて下さいます。
そして、
「一日のうちで、休まる時間はありますか?」
と尋ねられたので、
「はい。点滴している時が一番休まります」
と応えました。(苦笑)
(「かわいい看護師さんなので、いっそう」とも言おうとしましたが、点滴の針が違うところにささるを恐れて、それは言いませんでした)
看護師さんは笑っていましたが、一時間、半睡眠状態でゆっくり座っていられる時間というのは、考えてみれば、他にはないわけです。
社会の側が病的だと思う瞬間です。
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特別支援教育の「形」をどのように整えようと、子どもによりそった判断と実践に結びつかなければ、「形」は意味をなさないばかりか、有害ですらあります。
確かに特別支援教育は、一人のスーパーティーチャーが全てを背負うものではなく、教職員等の集団で取り組むべきは言うまでもありません。
しかし、その集団を構成するメンバーに、子ども理解の視点と手立てのセンスがなければ、会議を開けば開くほど、集団で判断を誤るということになります。当事者、関係者の思いから遠く離れた実践になるのです。そうした事例をたくさん、目に、耳にしてきました。
逆に、一人の「スーパーティーチャー」が、バイアスのかかった情報を垂れ流しながら、自己保身に走り、集団を巻き込んでいる事例も見てきました。
特別支援教育を進めるには、構成するメンバーに事実を見抜くセンスと、学術的支柱がなければなりません。
結局は「人」に帰結するのです。
「教育は人なり」なのです。
自戒を込めて。
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子どものそのときの状態だけでなく、過去からどういう経緯で今に至っているのかを見ること。
「今」しか見なければ、「できない子」に見えるけど、過去からの経緯がわかっていれば「こんなに成長したのか」と見えてきます。
子どもの育ちを長い目で見て信じること。
それは子どもにとっても、大人にとっても、大切なことだと思うのです。
今日は参観日でした。
先生方や親御さんに、今日の様子をお尋ねしたり、参観したりしながら、過去からの育ち、プラスの変化をフィードバックさせて頂く機会となりました。
子ども達の笑顔や行動、周辺情報に触れてほっとしました。
幼児からの就学への連結の苦労が報われた想いがしました。
人づてに聞くと、どうしても情報にバイアスがかかりますが、直に訪ねると色々なことが見えてきます。
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