ハンドルネーム ya
某公立学校通級指導教室担当教員
言語聴覚士
特別支援教育士(S.E.N.S)
性別 男
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グリコぬりえ
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お菓子のおまけについている塗り絵が「すごーい」と。
台紙に色を塗って、スマホやタブレットで写すと、なんと、塗った絵が3Dの立体になり、しかも画面上を動き回ります。
親子で「おー、すごーい」と叫ぶこと間違いなし。
それで終わってしまう感じもないわけではないですが、塗り絵への興味を高めたり、情緒的な交流のきっかけに。
Android版では、動作不良の報告があるようですが、私の持っている物では問題なく動作しました。
(Android4.4.4の最新版だからかもしれませんが)
馴化法という方法で、生後数ヶ月の赤ちゃんの「見え方」がかなりわかってきているのですね。
欠けた図形を補って見る(たとえばパックマン図形)ことが困難な、学習障害のある子どもがいます。こうした子は、まず文字を書く以前に、文字の形態把握の段階でつまづくでしょうし、読めても書く段階でつまずく場合もありえます。
ところが、通常発達では、パックマン図形を生後3ヶ月でも、図形が動いていれば知覚できる。
生後6ヶ月で、動きがなくても知覚できるとのこと。
色を見分ける力も、なんと生後2ヶ月で赤・緑経路の色弁別が可能。
生後3ヶ月で、青、黄の色弁別が可能。
つまり、「アオ」ということばを覚えてから色弁別ができるのではなく、ことば以前に弁別ができるということ。
動く物体をとらえる時、その動きの速さにも、見える範囲があるということ。
手を振ってバイバイ程度の手の動きなら、かなり早い時期に見えているが、遅すぎたり、早すぎると、もう見えない。
前に向かって歩いていると、風景が前方一点から広がって見えるし、後ろに向かって歩くと、風景は前方の一点に集約されます。
なんと生後3ヶ月でそれが知覚できるとのこと。
首が据わったころには、風景が広がっていく状況を認識できるのですね。
さぞかし、赤ちゃんにとっては、感動的で楽しい風景であることでしょう。
「左(右)口角を引いているから側音化構音」
「舌が左(右)に寄っているから側音化構音」
という判断は誤りです。
その理由は、以下の通りです。
1 口角を引いていても、歪みではなく、置き換えの場合もある。
2 口角を引いていなくても、側音化構音である場合がある。
3 口角を引くから側音化構音になるのではなく、舌背挙上によって側音化構音になる。
口角を引くのは、舌背緊張の結果であって、原因ではない。
4 舌を左(右)に引いていなくても、側音化構音の場合も多い。
左右のどちらかに偏ることは問題ではない。舌背緊張のために、舌背が口蓋に接していること自体が問題である。
構音の評価のためには、1)耳で聞く、2)舌の動きを見る、
この2つが必須です。
置き換えなのか、歪みなのか、鑑別することが、指導の手立ての前提として大切です。
PVT-R(絵画語い発達検査)は、子どもの語い力を測る検査で、短時間でできるのが特徴です。
その後の詳しい検査を行うための導入的な使い方をします。
今回の研修では、「検査の仕方」の前に、理論的な部分の説明をしました。
つまり、「再実施の時の信頼性係数」など。
この検査はよく行ったことがあるが、統計的なことは知らなかったという方がいました。
どんな検査でも、背景理論と統計学に基づいた信頼性の検討は大切です。
数値だけでは判断してはいけない理由は、ここにもあります。
だから、初めにこの説明をしてよかったです。
ケース会議では、構音から学習、そのほかのことまで、幅広く議論されました。
専門職のパラメディカルの方も見えて、多視点で検討できました。
また、誘ってほしいというアンケートが多数ありました。
ケアマネージャーでも、
対象者の把握→情報収集→アセスメント(課題分析)→ケアプラン案の作成→サービス担当者会議(本人、家族、サービス提供者参加)→ケアプランの確定→ケアの提供→モニタリング
という一連の過程を通るそうです。
やはり、対象者のアセスメントはきちんと行うわけです。
半身の軽度麻痺で、トイレまでの自立歩行が困難な事例に対して、それまでの環境をできるだけ変えずに、支援の方法を。
ベットから起立するまでの過程のみに、手すりをつけてあげるだけで、その後は自立歩行が可能になる。
まさに、課題分析ですね。
医療でも福祉でも、建設でも、動植物の保護のためにも、「アセスメント」は必要なわけです。
学校教育はどうか。
「アセスメントは必要ない」と豪語する、某通級担当の先生。
いかがですか。
患者の病気のことだけでなく、学習スタイルやおいたちを含めたアセスメントが重要。
「指導目標は達成可能であること」
「指導目標の精選」
指導目標で「○○が理解できる」では、評価できないので、「○○が説明できる」
指導目標を立てたら、具体的な教材の用意。
セルフケア行動の指導のためには、患者のステージ「前自覚期、自覚期、行動変化期、行動期、維持期」に合わせた指導が必要であること。
・・・
学校教育と全く同じだと思いました。医療でも、患者理解から看護へ結びつけるのです。
ことばの教室では宿題を出すこともあるけれど、本人や保護者のステージを常にとらえて、適切なかかわりをしていかなければならないでしょう。
否定的な評価は避け、少しずつステップアップしていくように。
心理統計法は難しいですが、これを理解しないと、WISCなどの心理検査の意味も本当に理解したことにはならないのでしょう。
「まずは触ってみよう」
とか
「どうやって解釈したらいいのですか」
という話が、WISCの研修では必ず出てきます。
それはそれで大事なことではあるのですが、そのバックボーンである心理統計法の知識がなければならない、そんなに簡単に解釈していいものではない、と思えてきました。
WISCの解釈本に出てくる統計的処理は、WISCのために初めて開発されたわけではなく、昔からあるものをWISCに適用したということ。
因子分析→潜在変数の発見
クラスター分析→分類
「t検定」と、「帰無仮説」
これだけでも、かなり歯ごたえがあります。
***
一つだけ確認しておきたいこと。
WISCの4つの指標得点を
言語理解 80
知覚推理 90
ワーキングメモリ 80
処理速度 90
などと表記している時点で、統計学を無視していると言うこと。
そして、WISCを活用する上でのルール違反であり、語る資格もない、ということ。
それはなぜでしょう?
自分や同じ病棟にいた友達の「死」に対して、子どもがどう向き合うのか、どう支援、看護するのかというテーマを扱った講義でした。
4歳までは「死」を「寝ている」ものとしてしか理解できない。
5歳から9歳までは「死」を擬人化する(お星様になったんだ等)
10歳以降で、命の不可逆性、永遠の別れが理解できる。
だから、子どもの実態、発達段階に応じて、死の説明を検討すること。
「退院したんだよ」
というウソの説明は、4,5歳の子どもでもわかってしまう。
看護師に対して不信感を持ったり、トイレで一人で「怖い」と泣いたりします。
それまで一緒の病棟で暮らしていた「友達」が、個室に移って、周りが騒がしくなって、そして静かになる。
それを「退院したんだよ」と説明して、納得できるはずがない。
なぜなら、退院する子は、周りの子に報告して、お別れの挨拶をしていくはずだから。
それまで、いつも連絡、報告してくれていたのに、急に連絡なく、いなくなるのはおかしいと。
「○○くんは、お星様になったんだ。だから今はお別れの挨拶にいけないけれど、いつかおうちに行って、最後のお別れの挨拶をしにいくんだ」
と答える子どもは、死について、発達段階に応じた説明を受けているのでしょう。
そして自らの死。
脈拍や体温、呼吸、触覚の低下、光への過敏性など、自分の体が変化していくことへの不安、恐怖。
夜中に「眠れないから、絵本を読んで」とナースステーションにやってくる幼児。
できるだけ、子どもによりそうこと・・・。
そして家族への支援。看護。
人生の最後まで、人としての尊厳を守ろうとする看護師の姿勢、そうしたスピリットが看護師を養成するカリキュラムに反映されていることに、強い感動を覚えました。
***
私の双子の妹が、生後すぐに亡くなったことを親から聞かされたのは、9,10歳ぐらいだったと思います。
だから、死の不可逆性は理解できていたと思います。
ただ、それが重大な意味だとわかったのは、さらにずっとあとだった気がします。
今、生かされていることの意味を考えました。
そして、どんな子も、最後まで人としての尊厳が守られなければならない。そうした視点で、特別支援教育を見ていきたいと思いました。
重病で安静が必要な子や、伝染病により他の人に病気が伝播する恐れがある子に対して、子どもを個人病棟に隔離することがあります。
講義では、隔離が必要な条件、隔離の仕方などの説明がありました。
その時の印象は、「あくまでも子ども視点に立っている」ということです。
***
保護者は隔離病棟に入室する際は、マスクや手袋、指定の服を着なければなりません。
しかし子どもにとっては、保護者のそんな姿を初めて見るので、不安になるでしょう。
お母さんがマスクをしていると、顔の表情が読み取りにくくなるので、子どもは不安になります。
手袋を通してしか、子どもに触れることができないことも。
そして、窓の外では他児が遊んでいて、うらやましく思うでしょう。
狭い病室で、生活リズムが単調になるから、巡回の時は、できるだけ長い時間をとって話しかけてあげましょう。
歩いてトイレに行ってはいけないのに、自分で歩いて行こうとする子には、
「あの子は歩いて行けるけど、あなたは看護師を呼んでね。そうしたら、車いすに乗ってトイレに行けるよ」と具体的にやり方を教えること。
「ベットから降りてはいけない」の指示に従わず、ベットの上でトランポリンの様に跳んだり、隣のベットとの間を渡り歩いて遊んでいる子に注意したら、「だってベットから降りていないよ」よ。
子どもはふざけているのでなく、わからなかっただけ。わかるように具体的に説明すること。
***
このように、隔離や身体の保護についての説明だけでなく、子どもはこういう気持ちになるから、身体拘束を続けることで、知的、社会性、手先の巧緻性の発達に影響するから、拘束は最低限度に、という説明が、あくまでも「子ども視点」なのに感動しました。
ところが、教育に関する講義ではいつも思うのですが、「学校体制」の説明が多い気がします。
図書室の活性化のため、「○○コーディネーター」を配置して、地域と連携する組織を作って、など組織図が多い。
本に興味が持てない子、文字の読みが苦手なので本を毛嫌いする子、運動の方がしたい子、「自主活動」と称して、実際には、休み時間も係活動を強いられ、友達と遊ぶ時間が無い子・・・。
学校には、様々な子どもの実態があります。
それらの子どもの実態を見ずに、「学校図書を活性化させるために、こういう組織を作りました」
子どもの気持ちから遠いなあと。
医療と教育とでは、どうしてこんなに差があるのでしょうか。
もちろん、医療は、一人一人の患者さんと接しますし、学校は一度にたくさんの子を動かさなければいけない事情もあるでしょう。
でも一番の問題は、学校はやらなければいけないことが多すぎること。
やらなければならないことの縛り、決まりが多すぎること。
「○○コーディネーター」という名称だけで、何種類もあります。
生徒指導、図書、特別支援教育、いじめ、食育、体力、学力・・・。
多すぎです。
教員は様々な組織を掛け持ちで、学級の授業以外の仕事を背負っています。
この問題に集約されていくような気がするのです。
学校教育に、もっと、子どもの側に立った視点がほしい。
そうした研究がもっと増えてほしい。
色々なプロジェクトを縦割りで学校に課すでなく、それらのプロジェクトが現場レベル、子ども個々のレベルで、どれだけ負担になっているのか、トータルな視点での研究の進歩を望みます。